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2013年4月11日

2013年4月11日 (木)

世界の均衡を守ることは本当に必要か?

世界の均衡を守ることは本当に必要か?

スタジオジブリの皆々様

ドイツ亡命中の大西です。

ゲド戦記について,ひとつ私がどうしてもおかしいと思うのは,"世界の均衡"という概念です。

"世界の均衡"はある程度は考えないといけないのは分かりますが,
それは言い換えると"空気を読む"ということでもあると思います。

たとえば,日本では"空気を読む"ことにより,立場が上の者に対して立場が下の者が
絶対服従するのが当たり前のように考えられています。
これは非常におかしくて,むしろ打破すべき概念と思っています。

"世界の均衡"というのは,言い換えたら,不文律を認めろ,ということですよね?
それは,法治国家の概念と本当に相容れるのでしょうか?

たとえば,コクリコ坂からという映画は,私はまったく評価していません。
いくら主人公達が精一杯頑張ろうが,徳丸社長や船長さんら大人に認められて
メデタシメデタシ,になってしまっている。

映画作品でいえば,カリオストロやナウシカやラピュタは,打破しないといけない
既成概念を,若者(ルパンも,いまの時代で言えばまだまだ若者でしょう)が打破する。
それが面白かったし,いまの時代に必要なチカラであったのに,
コクリコ坂からは権力におもねってしまっていると思います。

聞き分けのいい大人を描いてある,といえばそれまでですが,
世の中そんなに,あるべき本質に対して聞き分けのいい大人ばかりじゃありません。
誰しもどこかで妥協が入ってしまって,あるべきところに到達できていません。
当然,原発を潰したいのに,横断幕掲げただけで喜んでいる宮崎駿もまた,妥協が入っています。

たとえば,本当に原発が潰したくて頑張っている人間が出てきたとして,
宮崎駿は一緒になって運動しますか?
自分は作品があるからとか言い訳して,逃げませんか?

それが,守るべき"世界の均衡"なのでしょうか?

ワタシは,違うと思います。
"世界の均衡"を良いほうに解釈して再定義するとすれば,
それはいま現在における断面だけを考えるだけではなくて,
昔から延々と続けてきた人類の叡智をすべて考慮する,
その上での均衡ということだと思います。

人類の叡智とはなにか?
文学作品など,過去の人々が後世まで伝えたいと思ったものの蓄積であり,
その集合体としての,憲法や法律であると思っています。

それはけっきょく,いま自分の目の前にいるヒト,自分が言いくるめられるヒトの
意見を聞くことだけでなく,
いろんな世代の,過去から未来へ連なる人々の意見に聞くことだと思います。

だからこそ,対話が大事と思います。
対話は,基本的人権の,言論の自由として,世界で認められている権利であり,
また,相手の権利を認めねばならぬという意味においては,義務であると思っています。

対話することにより,たとえば,あらゆるヒトと対話することで,革命による急激な
貧困や殺戮をなくして,国内の法律や各国間の意見を集めて世論を纏めて調整して,
ソフトランディングにより世界を変えていく。こういうのこそが,
あるべき"世界の均衡"であると言えると思います。

それだけの苦労を最初から否定し,革命を行わず,未来永劫に渡って既得権益を守る,
そのために法令も無視するのであれば,それは誤った"世界の均衡"であると思います。

いま,高畑さんも宮崎さんも,日本の過去を扱った作品を作られています。

過去に学ぶべきこともたくさんあるとは思うのですが,だから未来を変えなくていい,
というような作品になってしまうのであれば,コクリコ坂からと同じで,
マクロ的な意味で,権力におもねることを助長する作品になってしまうと思います。

過去を描くからといって,権力におもねるのではなく,権力に抗う作品であって欲しい。
そう思います。

大西秀宜

http://onicchan.cocolog-nifty.com/blog/

4/8AKB48研究生パジャマドライブ公演(相笠生誕)を観た感想

4/8AKB48研究生パジャマドライブ公演(相笠生誕)を観た感想

なかなかいいが,個人的にだいぶ慣れてきたので,先にユニットから。

天使のしっぽは,こじまこがいいと以前より言っていたが,
ほんの心持ち音程が低いのではないかと思ってきた。

あやなんもだいぶ高い声が出てきたが,こじまこと同じくらい,気持ち低い気がする。

さっほーはアイドル好きなだけあってか,合っているだけでなく,
高くて通る非常にいい声をしている。こじまこもあやなんもさっほーに合わせて欲しい。
研究生全員が手本にしたらいいのではと思う。

パジャマドライブは,前回みきちゃんが低いかも,と書いたが,あれはあれで
合っている気はする。オクターブ低めで出しているように思う。

うめたんは,歌い出しができているように思ったが,その後が低い。
(前回も似たような指摘) もっと腹式呼吸を意識して欲しい。
うめたんは普段から話し声などでもあまり大きな声を出してなくて,
その結果歌声が小さくなる気がする。
たとえばハイキングに行って,山でヤッホー!というつもりで発声してみて欲しい。

さっきーは,高くていい声が出ていると思う。声量もまずまずいいと思う。

純情主義は,全員上手いのであるが,前回指摘したように萌がなんか低く感じる。
オクターブ低いとも思う(それはOK)のであるが,それ以外にもどうも,
"純情主義ーーー"と伸ばすところがなんか耳につく。
どうも低くなっている気がする。
伸ばすところをもう少し高くできればいいのではないかと思う。

ひらりーとゆいりーは,おおむねいいけれども,なんか微妙に低いと感じるときも
たまにあるので,音程が全部合っているかチェックして欲しい。

てもでもの涙は,なぁちゃんは相変わらず上手い。

なっきーは,どうも低い。
なぁちゃんと交互に歌い合って確認してみて欲しい。
たとえば,なぁちゃんになっきーパートも歌って示してもらえれば,
どれくらい低いかが分かると思う。

鏡の中のジャンヌダルクは,ぽんみゆの歌は合っているが,どうも声が小さい。
うめたんに同じく,腹式呼吸をもっともっと心がけて欲しい。
せっかく合っているのに,声量でほかの子達に負けていると思うのである。

また,茂木とあやか,ゆーりんは低いと思った。ひかりは分からなかった。
どうも暗めの曲なのでみんなついつい低くしてしまいがちであるが,
よくメロディを聞いて欲しい。

その後の全体曲では,キスして損しちゃったが,どうも全体的に低い気がする。
ここでも,暗めの曲なのでどうしても意識が低く出ているように思える。

水夫は嵐に夢を見るは,萌のダンスが光っていた。
ダンスの振りの大きさが他のメンバーより明らかに大きかった気がする。
髪の毛もぐしゃぐしゃにしてダンスしていた。
いつもそこまで思わなかったので,特別よく踊っていたのだろうか。
たまたま今日萌が推しカメラだったので気づいただけだろうか。

全体での指摘では,ゆーりんが喋るときに,けっこう頻繁に,マイクを持つ手を
左右左右と持ち替えて,持ってないほうの手をその都度衣装で拭くようなしぐさを
するのであるが,けっこう気になった。よほど癖でもあるのであろうか。
妙に思えるので,ちょっと気にして欲しい。

なぁちゃんは,以前より笑顔が苦手と言っているが,白いシャツでのはじけかたが
改めてけっこうすごいと思った。激しさもひときわいいと思う。
他の曲でもあれくらいの笑顔や激しさが見せられたら,さらにいいと思う。

ところで,公演の最初に,「冷静丁寧正確に!」ってかけ声をかけているが,
ワタシは,本番のダンスは冷静でも丁寧でも正確でもなくてもいいと思う。
むしろ,常に意識して欲しいのは,元気よくとか,チームワークよくというような
ことなので,それに合わせた掛け声に変えて欲しいように思う。

現に,「冷静丁寧正確に!」はAKBでしか使っていない。
AKBは伝統もあるため続けているが,他グループはもっと実践的な掛け声に
変えているようにも思うのである。
一度考えて欲しい。

作った作品と自分の行動を合わせるということ

こんにちは。スタジオジブリの皆様
ドイツから3日連続の大西です。
以前何年も前に書いたかもですが,私はゲド戦記は,非常にできがよかったと思っています。
ストーリーの大枠が,クモとの戦いになってしまったのは
どうしてもいただけないとも思いますが,それでも,
既に大賢人がいるなかで,自分の存在価値を見失いがちになりそうななかで,
大賢人といいながら悪には無力なゲドを,助けに行けるアレンは,
まぎれもなく現代の若者を現していると言えると思います。
現実には,大賢人になぞらえられるような人たちは,権力のトップに立ち,
ヒトに苦労を強いる悪になってしまっている人がほとんどであると思います。
そして私たちは,大賢人になぞらえられるような人たちを必要以上に崇拝し,
たとえばそれが宗教になればいくらでもお金を費やしたりしますが,
そのじつ,大賢人の真の考えに共感し,自分も苦楽を共にするという意識には
乏しいのではないかと思います。
高畑さん宮崎さんも,崇拝者は多くとも,真に自分たちの作り上げた世界を
受け継いでいこうという仲間は,じつはいないと思われているのではないでしょうか。
その結果が,宮崎駿さんの労苦を理解している,宮崎吾朗さんの監督起用に
繋がったとも考えられます。
そのようなことをかんがみると,自分には助ける必要がないとさえ思える大賢人ゲドを
助けに行けるアレンの勇気は,非常に尊いものと思えます。
そのゲド戦記を,原作者のアーシュラ・K・ル=グウィンさんは,
宮崎駿監督作品ではないからと,こっぴどく批判されました。
ゲド戦記の本題のひとつは,若い人への期待にあると思います。
そして,若い人は失敗がつきものであり,試行錯誤を経ながらチカラをつけていくものです。
私も現在ドイツ亡命申請中であり,ゲド戦記本文はもうだいぶ忘れた上に読めませんが,
ゲド戦記はたしか,若い人の失敗には寛容な作品であったと思います。
であれば,どうしてル=グウィンさんは,宮崎吾朗さんには期待できなかったのか。
一回の過ち(私は過ちとさえ思っていませんが)に寛容になれなかったのか。
結局,ル=グウィンさんも,自分の書く文学作品と,自分の起こす行動の間には,
まだまだ整合性を持てていないのではないかと思います。
そしてそれは,私が現在追っている,都合が悪くなるとすぐ雲隠れする秋元康もそうですし,
言葉だけでなかなか行動に移せず,知名度ほどには社会的な発言力のない宮崎駿や高畑勲にも,
おなじことを感じています。
ジブリのこれからのひとつ大きな課題は,自分たちの作品を,
自分たちの行動と合わせることなのではないかと,私は思っています。

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