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2013年7月27日

2013年7月27日 (土)

Yahooのレビューにも書きました

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宮崎駿の言い訳の物語採点:
投稿日時:2013/07/27 20:42:54 投稿者:hidenobu_oonishiさん役立ち度:17人

http://info.movies.yahoo.co.jp/userreview/tyem/id344584/rid1855/p1/s0/c2/

そこそこ支持されています。
まあ、ジブリアンチが票を入れていたりしますが。

言い訳の物語 ー 「風立ちぬ」を観て

風立ちぬ、賛否両論があったが、今日やっと観て、これはかなりの駄作と思った。
宮崎駿が作っているとは俄かには信じられない。

巷で言われている、庵野さんの声は特にダメとは思わなかった。
そういう声を欲しがっているのだから。
とはいえそれも、声優に限定せずとも舞台などで頑張っている人々の声、そして人々がリアルに発するナマの声をも否定するものであり、正解だとは思わないが。

この作品がいちばんいけないのは、二郎は宮崎駿そのものであり、軍事にも使われかねない飛行機を好きになった自分を、堀越二郎という名前を借りて正当化していることと思った。

二郎は宮崎駿そのものだからこそ、ヘビースモーカーの宮崎駿を擁護するように、二郎が何度も何度も執拗に煙草を吸うシーンが出てくるし、宮崎駿の空への夢を擁護するように、怪しいイタリア人が執拗に出てきて夢をことさら強調するし、家庭をかえりみられなかった宮崎駿を擁護するように、奈穂子は二郎が働く姿が好きだと言い、二郎の成功と引き換えに死んで行くのである。

これらのシーンは、擁護される必要を感じている宮崎駿にとっては欠くべからざるものである。だから宮崎駿は自己の作品の試写会で初めて泣けたのである。
しかし、我々にとってこれらのシーンは冗長な枝葉末節でしかない。

このストーリーをそのまま取れば、二郎は奈穂子の命を縮めたのである。
ほんとうに奈穂子のことが好きであるならば、二郎は空への夢でさえもあっさり捨てられると思う。たとえば現代の育児休暇のように、一時的に外れるという選択肢はあるはずなのである。
宮崎駿はそんなことはできないと言うだろうが、それが家族というものだと私は思う。

もちろん、組織におればそんなことはできない、という反論もあるだろう。
けれども作品中の上司達はとても聞き分け良かっただろう?

そう突っ込めば、宮崎駿は、そこは理想像を描いただけで実際は違う、と言うだろう。

しかし私は、そういうところこそキチンと描くのが映画ではないか?と言いたい。
どうも宮崎駿は、脚本で参加した前作「コクリコ坂から」あたりから、やたら権力におもねった描きかたをするようになったと思う。
「コクリコ坂から」「風立ちぬ」に見る、どんちゃん騒ぎで正論吐けばなんとかなる、的な雰囲気に私は危機感を覚える。

テレビシリーズのルパン三世で、"四菱重工"が、ラピュタのロボット兵の原型のような兵器を作り、それをルパンが必死に食い止めるというようなストーリーがあったと思うが、権力に対抗したはずの宮崎駿が、30年以上経たあとで、権力におもねってしまったのはどういうことであろうか。

けっきょく、そのへんの政治家が資金を得て当選すると、権力を利用して利益供与するのと同様に、宮崎駿も資金を得て有名になると、権力を利用して利益供与するようになったとしか見えない。

憲法第九条は守るべきだが、その戦闘機を作ったヒトは、空を飛びたいという純粋な夢を持っていたのだから問題ない。

その論法が正しいのならば、
人々の健康は守るべきであるが、放射能をばらまく原発を作ったヒトは、クリーンなエネルギーを生み出したいという純粋な夢を持っていたのだから問題ない。
反戦は守るべきであるが、憲法改正を検討するヒトは、他国と同じくらい憲法について活発に議論したいという純粋な夢を持っていたのだから問題ない。

これらを宮崎駿はどう整理をつけるのであろうか?
一方の立場だから、もう一方の立場の意見は無視していい、ではないだろう。

私はやはり、飛行機が戦闘に使われることには、堀越二郎も宮崎駿も、イメージシーンの描写と、"夢"という言葉で逃げるのではなく、もっと真剣に真正面から対峙すべきだったと思う。
そしてキッパリと、飛行機を軍事に使って欲しくないと、映画の中で描くべきだったと思う。せめて二郎はもっと悩むべきであった。

悩みがなかったところが、宮崎駿の言い訳の物語と思う理由であり、自分の意見だけ主張して相手の意見も聞かない、慰安婦問題における歴史修正主義者達の言い分を聞くような、居心地の悪い違和感を覚えるのである。

ナツイチ メンバー一人ずつ講評 その26 人間失格を読んで 松井玲奈

今日がお誕生日の松井玲奈についても、いまのうちに書いておこう。

この感想文は非常によくできていると思う。
「神様みたいないい子でした。」この一言と「人間失格」というタイトルとのギャップに疑問を抱き、そこから自分の考えを展開しているのである。
その中で、自分への振り返りを随所に行っている。非常にいいと思う。

しかし、締めくくり方が陳腐である。"神様にはなれないけれど、人の本当の気持ちが少しでも汲み取る事ができる、そんな人に、私はなりたいと思った。"
と言っても、松井玲奈は既に22歳である。22年生きたいま、なれていない人格に突如としてなるのはまあ不可能である。

謙遜したのであろうが、ここはむしろもう一歩踏み込んでもよかったと思う。

たとえば私ならば、"自分の経験から、本当の気持ちを内に秘め、苦しんでいる人は多いと想像する。そんな人々の本当の気持ちを汲み取る事ができれば、うつ病や自殺者を減らせるのではないかと思う。私はAKBグループにいるので、人々に対して発言できる機会が多いが、今後は人々の本当の気持ちを汲み取ることの大切さを意識して、発信して行こうと思った。"

とすることにより、自分のこれから行うべきことを具体化させ、「人間失格」を読んだ経験を問題意識として昇華させると思う。

自分のこれから行うべきことを具体化させるのは、経験から何かを得るためには必要である。
具体化のしかたが必ずしも正しくないのでは、と思うかもしれないが、10回20回と繰り返すうち、抽象的に考えたつもりになっている人とは明らかに差がついてくることを考えてほしい。

松井玲奈はいいことを考えているのであるから、さらにあと一歩踏み込む習慣をつけて欲しい。


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人間失格を読んで 松井玲奈
http://kansoubun.shueisha.co.jp/matsui_rena/

 「神様みたいないい子でした。」と締められるこの「人間失格」タイトルからはこんな締めの言葉になるとは一瞬も思わなかった。
 作中で語られているのは、葉蔵の恥の多い生涯だ。
 確かに葉蔵は酒に溺れ、多くの女性と関係を持ち、恥の多い生涯を送っていたのかもしれない。しかし、周りから見れば彼は「神様みたいないい子」だったのだ。
 私はこの点にとても興味を持った。何故、葉蔵という人間は他人と自分でこんなにも印象がズレているのだろう。
 私はよく、見た目はおとなしそうだが、性格は熱い、第一印象と違うと言われる。しかし、この印象の違いは彼のそういったものとは違うのだ。
 なぜなら葉蔵は幼い頃から「道化」を演じていたからだ。彼は人間を極度に恐れていながら、それでいて人間をどうしても思い切れなかったのだ。これは彼の人間に対する最後の求愛だったようだ。わざとおどけてみたり、素直に見えるようにしたり、他人の事を優先させたり。とにかく人の為に動いているようにいい人を演じていた。そんな自分を心の中で恥じて生き続けた結果が、他人と自分の印象のズレにつながったのだろう。
 この本を読んで、私も周りの目を気にして自分が思っていることは口にせず、当たり障りのない言葉を口にして自分を守ったことがあった。誰もがいつも素直に自分の感情を口に出すことは難しい。葉蔵のようにそんな自分を恥じて、本当の気持ちを内に秘め、その事を責め続けている人もいるのだろう。
 神様にはなれないけれど、人の本当の気持ちが少しでも汲み取る事ができる、そんな人に、私はなりたいと思った。

ナツイチ メンバー一人ずつ講評 その25 終末のフールを読んで 岩田華怜

イチ推しだからと、0時すぐに読んでみた。
それなりに纏まってはいるが、面白みに欠ける文章で、個人的には期待はずれである。

ほかのメンバーのもパラパラと見てみたが、先週の子達は自分の考えをしっかり書いていたのがいくつかあって読み応えがあったけれども、今週の子達は伊達娘を始めとして予定調和的な文章ばかりで、いまいち面白くないように感じる。


たとえば、冒頭の伊坂さんの作品についてのとっかかりも、自分が伊坂さんに対する思いを書く導入として決して悪くはないはずなのであるが、厳しい文字数制限があってそれで感想の1/4を取ってしまうとなると話は別である。
文字数制限があるのであるから、もっと物語の核心に触れてほしかった。

その後の感想も、なんか感想文というよりも紹介文になってしまっている。

感想なんだから、先週のゆかるんのように、いくつか物語があったとしてもひとつの物語、ひとつの言葉、ひとつの行動に焦点を当て、その言葉や行動をどう思ったかを深めるべきと思う。


紹介文を書いてしまう、というのは、厳しいことを言えば、実のところ自分の意見を出す、自分をさらけ出すことを拒否しているのである。

高畑勲さんがかつて、"この映画で挙げられている、○○という問題を、みんなで考えよう"
などと、映画の感想や批評文で平気で書く人ばかりであるが、そう言うあなたが最初に考えて意見を言え、と仰っていた。

私はそれを聞いたとき、確かにそうだと思い、それ以前も"みんなで考えよう"的な逃げは使ってはいなかったのであるが、それ以後は意識的に意見を言うようにしてきた。
AKBの公演であろうが会社の発表会であろうが、必ず意見を言う私のクセは、高畑さんのこの言葉によってついたと言っても過言ではない。


伊達娘は最後の締めくくりを、"今日を生きる、明日を生きることの意味を知らされるストーリー。この夏、君に捧ぐ。"として、キザなセリフを書いたつもりであろうが、以上のような点を考えると、締めくくりもそれに至る文章も全て他人任せであり、では自分がどう思ったかをキチンと書いてはおらず、オブラートに包みながら逃げており、私は評価しない。
私のファンレターを読んでいるはずなのにこういう文章を書きやがってと、叱りたい気分である。


女優というのは自分で考え、自分で考えたことを表現して見せるのが仕事であり、たとえ役柄であろうとも、発する言葉は自分のものになっているべきだと思う。
たとえ殺人鬼の役柄をしたとしても、自分の中で背景やそれに基づいた思考パターンを全て飲み込んで、殺人鬼になりきるべきと思うのである。

そして、それぞれの登場人物になりきるシミュレーションを頭でやってみたのであれば、8つの短編それぞれに、登場人物に代わって代弁したい物事の2,3は出てくると思うのである。

そういう観点から、伊達娘にはもう一度読み直してほしいと思う。


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終末のフールを読んで 岩田華怜
http://kansoubun.shueisha.co.jp/iwata_karen/

 仙台在住の伊坂幸太郎さんは、仙台生まれ仙台育ちの私にとって、小さい頃から日常生活の中に当たり前に存在する、本棚のヒーローでした。
 伊坂さんの作品の好きなところは、故郷仙台の馴染みある街や風景が沢山出てくるところです。映画化されていることも多い伊坂さんの作品は、そのほとんどが、実際に宮城県で撮影されています。いつも何気なく通っているあの道が、あのお店が、伊坂さんの魔法にかけられたように、不思議とキラキラ輝いて見えるのです。
 そんな中、今回皆さんに是非ご紹介したい「終末のフール」という作品は、大好きな故郷の、家族や友人、ご近所さんを思い描きながら読んで頂きたい作品です。物語は、八年後に小惑星が衝突し、地球は滅亡する。そう告げられてから五年が過ぎた仙台北部の団地の人達を描いたお話です。つまり、あと三年しか生きることを許されない、人生の終末を突きつけられた人々の生き方を、八つの短編に分けて描いています。最初は正直、生と死という重みのあるテーマで、私に理解できるか不安でしたが、少しSF風な所や、読めば読むほど登場人物が繋がっていく所がとてもおもしろく、あっという間に読み終えてしまいました。途中、生きることを投げ出してしまう人や、荒れ果てた街の様子に胸が苦しくなりましたが、なぜか後ろ向きではなく、不思議と生きる事にとても前向きになっていきました。死ぬという恐怖に駆られると人は、何を思うのでしょうか。死ぬ前に自分がやらなければいけないことはなにか。伝えなければいけないことはなにか。人生の終末を受け入れた先に、沢山の愛と絆と勇気の物語があったとしたら…?
 今日を生きる、明日を生きることの意味を知らされるストーリー。この夏、君に捧ぐ。

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