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2015年8月28日

2015年8月28日 (金)

"子供がなにも知らずに一生懸命することはあまねく面白い"ことについて~ゆかるんの二十歳の誕生日に寄せてなど

"子供がなにも知らずに一生懸命することはあまねく面白い"ことについて、いい例が、私が再三にわたって挙げる赤毛のアンです。

私はアンは利発過ぎる子だったので、どのように社会と折り合いをつけていくか?の物語と思っています。
(というか、いまの私が読めば、社会と折り合いつけ過ぎたところもあるかも知れませんし、もうちょっと異なった物語にできるようにも思います)

然るに、私ほど感情移入して観る人はいないために(特定の登場人物に感情移入してはならないと私は主張しますが、私自身はどうも複数の人物に均等に感情移入しているようです)、多くの人がアンの行動に対して笑ってしまいます。
いや私だって笑うところが多々ありますが。

それを考えると、自分の心からの行動が笑いを呼ぶというのは、恥ずかしいどころか、誇らしいことなのです。

私は、ありきたりの内容が嫌でもう何十年と観ていませんが、サザエさんだって、笑われるために生きているわけじゃないでしょう。


人々を笑顔にさせられる話題を自分が作り出せるって、とても幸せなことです。

いくら子供を産んでみたところで、その子供が嫌がる行動ばかりする親は、親とは言えません。(いうまでもなく大西弘子のことです)

それと比較すると、子供を笑顔にさせられる大人は、その子供の親と同然、いや親以上の影響力を持っているといえます。


ゆかるんは、自分の行動を2,3歩引いた目で見て、自分がサザエさんのように・・・・・・はイヤかw(サザエさん24歳の設定やからあと4歳しか違わんけど。そういや私もバカボンパパまであと1歳か)、アンのように、人々を笑顔にさせられると思って、自分をネタにしたらいいと思います。


私なんて自分の失敗談をどれだけネタにしてきたことか。

それだけでなく、私は行動自体がバカ正直で面白いらしくて、どこへ行ってもだいたい笑いのネタになります。

(その私を笑いのネタでは済ませない者どもが確実にいるのです)


そういえば、父親は私の子供の頃のネタを楽しそうに話していました。
こういうのは本当の愛情と思います。

大西弘子が私のことを話しても、全部自慢話になり、私はなにひとつ楽しくないのです。

そういえば、大西弘子の会話で私が笑ったことは、一生でただの一度たりともありません。
大西弘子には、人を笑わせる、楽しませるという概念が一切欠落しています。
相手のことをおもんぱかる能力が全くない、といいますか。

大西弘子の12歳上の兄の松本武にもそういうところがあり、松本武と、6歳上の姉の笹倉松子とはそりがあわなかったようでした。

大西弘子はのらりくらりと両方についてましたね。

私が大西弘子の立場ならば、松本武と生き別れてました。

てか大西博昭が松本武を毛嫌いしていましたが、松本武は呑ん兵衛のジジイで、私が行ってもワケワカラン説教を聞かされて苦手でした。

ところが、大西弘子は松本武が高校の生徒会長をしたことがものすごく自慢らしく、松本武を絶対の存在とみなしていました。

松本武は大西弘子の12歳上なので、大西弘子が高校の生徒会長というのがどんなものか理解するにはだいぶ時間がかかります。
いま改めて考えると、大西弘子の、自分の血族意識といいますか、自分がどう行動するかではなく、血族の自慢をするところは、かなり若い頃より作り上げられたとわかります。

大西弘子からそれだけ自慢されれば、大西博昭が松本武を毛嫌いしたことにもじゅうぶん納得がいきます。
全部大西弘子の自業自得なのです。

大西博昭は、高校時代のマラソン大会で、ウンコしたくなって民家に駆け込んだと言ってました。

大西博昭には人間味がありました。
だから私はいま、大西博昭をさほど悪くは言ってはいません。

大西弘子には人間味を微塵も感じない。
だからこそ私は、ロボットと同様に、大西弘子に対しては機械的に死ねと言えるのです。

大西弘子への怨みは、消えません。
いまもって増えつづけています。


最後に、改めてもう一度書きます。

人々を笑顔にさせられる話題を自分が作り出せるって、とても幸せなことです。

人々が思い返したい、懐かしい思い出となって残るのです。

ゆかるんの行動のいくつかは、既に私にとって、思い返したい、懐かしい思い出になっています。

ゆかるんには、大勢の思い返したい記憶に残るよう、自分の失敗談なんかも笑顔で語れるようになって欲しいと思います。

お笑いって、観にきている小学生が全員"かーらーすー なぜ鳴くのー からすの勝手でしょ~"って喜んで歌うようなやつちゃうの?

私はどうしてもドリフと比べてしまう。

8時だョ!全員集合!、それで毎週生放送で各地を回って切り盛りしとったんやから。

"かーらーすー なぜ鳴くのー からすの勝手でしょ~"

って、子供は野口ナントカよりもよっぽど現実が見えていたことを示している。

なのに、PTAが抗議して、子供が真実を発見するよりも、からすの歌は作詞家が表現した以外の受け取り方をしたらアカンようになってもた。


ホンマにPTAが抗議したのかなあ?
日本の若者が、為政者にとって都合よく行動するために、為政者はこの時点から仕込んどったんちゃうかなあ?

その結果、為政者にとって都合よく、ものごとの本質を捉えてその本質に対して膝カックンするようなお笑いネタを、お笑い関係者自体が作れんようになっとるんちゃうか?


ヒゲダンスでも、純粋に見ているだけで楽しいのに、ラッスンゴレライとか、笑えるところはあるとはいえ"純粋に見ているだけで楽しい"とはいえん。

小難しくこねくり返すよりも、全身を使って表現したらそれだけで楽しいのに、なんでできんかなあ。


お笑いって、誰かのモノマネをするヤツは多いけれども、"誰かのモノマネ"ではなくて単にパントマイムだけでも笑いが取れるはずやのに、パントマイムは流行らん。

"誰かのモノマネ"では借り物でしかないけど、たとえば自分が電車に乗っていて、面白いと思った人の行動をマネするのは、自分が発見したネタやん。


ドリフだって、お茶の間での家族の会話みたいなのとか、電車の酔っ払いとか、たわいもないネタでじゅうぶん笑わせられとったやん。


コレ書いて、改めてだんだんハッキリわかってきたけど、やっぱ日本人、"観察する"能力がここ30年ほどの間で急激に落ちとる。

それはアニメーションにも通じるわな。
技術者にも政治にも通じる。


"考える"と"観察する"は、ニワトリとタマゴのような関係や。
"考える"ことがなければ"観察する"ことは不可能やし、"観察する"ことなくして"考える"としても、正解に至った確証が得られん。

しずる館フェスティバルについて、改めてあれこれと

よくお付き合いで人々が褒め合ったりすることが多いですが、私はお付き合いよりも率直な感想、しかもお笑いを観ていない者の感想のほうが、広く一般人受けを狙うときに必ず必要になると思って書いています。

私は以前より同じようなことを繰り返し言っていますが、"お約束"を面白いと言わねばならぬようなものは、一般受けしないのです。
誰が見ても笑える、それが最高です。

しずる館フェスティバルでは、誰が見ても笑える内容になってなかったと思います。

そういう芸がお笑い界で一般的なのかも知れませんし、お笑い界に限らず伝統芸能界で一般的なのかも知れませんが、一般受けするためにその"お約束"を時として取っ払ってしまうことが必要なのです。


このような主張を繰り広げるにあたり、ここで"バケモノの子"の熊徹について解説を加えたいと思います。

熊徹と九太らが、神様・・・だったか?に紹介状を書いてもらい、さまざまな達人を訪ね歩く場面があります。

けれども熊徹はどの達人を見ても、なんら得るものがないとして嫌そうな顔をしていました。

私には熊徹の気持ちがよくわかる気がします。


どの達人も結局、内なる闘いの中から真理を見出しているのです。
けれども、内なる闘いなんて雲をつかむようなものです。

内なる闘いの例として。
座禅を組み、滝に打たれて真理を見出した僧侶が、目の前の人の悩みを解決できるでしょうか?

"真理を見出した"なんてのはウソで、僧侶なんてなにもできません。

そして逆に、どんな方法であれ、目の前に現れた人の悩みを解決できる人間がいたとすれば、それは内なる闘いをした僧侶の何百倍も尊い存在と、あなたも思いますよね。


熊徹は、達人たちは内なる闘いをしているだけであることを見抜いていたのです。
だから満足しなかった。
そして自分の、世界のあらゆるものを助ける意思が強かったからこそ、達人もなにもかも飛び越して自分が神になれたのです。

"バケモノの子"はストーリー構成上、そういう繋がりが見られます。


しずるさんであろうが伊達娘であろうが、アキブータンであろうが、「自分は面白かった」と自己満足していては、内なる闘いの範疇から抜けられません。

自分が面白かろうがなんだろうが、これでは人々から理解されない、それがひいては、世界のあらゆるものを助けられないことに繋がると認識して、少しでも人々から理解される表現に勤めて欲しいと思います。


そうそう、今日はゆかるんの二十歳の誕生日ですよね。

いまの私には、ゆかるんを救える方法がなくて、もうちょっと待って欲しい、と書こうと思いました。


けれどもそこでふと思いたったのですが、私は一昨日だかに、子供がなにも知らずに一生懸命することはあまねく面白い、と書きました。

ゆかるんは美人なだけでなくて、一歩引いて見たら、いちず過ぎて非常にお笑いに近い、伊達娘よりもはるかに近いキャラをしているのです。

それを受け入れられずに泣いちゃったりするのかな?
最近どうしても写真や文章に接する機会が少ないので、これまでのイメージから想像していますが(イメージと想像は英語にすると同じですが、日本語ではちょっとニュアンスが違いますよね)、"いちず過ぎてこんなことしちゃいました"的なものをネタにできればと思います。
バルーンアート480個作ったとか。

それを誰かからいじられても堂々と笑っていられるようになると、もっと売れると思います。

ゆかるんをボケにして、"ゆかるんお笑い芸人化プロジェクト"とかどうでしょう。
とにかくゆかるんの行動を掘り返して脚本を作り、ゆかるんがボケで相方が突っ込むのです。

清純派は捨て去ることになりますが、清純派は咲良とかに持ってかれているし、ヲタからも正直重い女と思われているフシがあるので、とにかくお笑い芸人を目指す。

相方は、十夢がいいかなあ。
年長者からツッコミ入れられるほうがいいと思います。


ちなみに伊達娘は、お笑いというよりも一人芝居のほうが向いていると思います。
昨日の出演者の中でも、一人だけ異様でした。

水野しずさんも異様なんですが、芸風がひとつです。
伊達娘は芸風がひとつではなくて、役者らしいところは見られると思います。

一人芝居は漫読の延長上で、マンガ自体をなくして、オリジナルの芝居をすればいいだけですから。

ミュージカルに繋げるためには、そこに気品を付け加えたいところですが。


最後に。

なにかを観て接して、「面白かった」「勉強になった」と言っているうちは、身につきません。

・ダメと思った場合、自分ならばこうするのに、というストーリーを考えてみる

・いいと思った場合、それに何を加えればもっと良くなるかを考えてみる

このような行為を毎回繰り返せば、自然と思考力は身につきます。
世の中の人々は、「面白かった」「勉強になった」と言葉にするだけで、具体的にどこがどう勉強になったかなんて考えていませんから。

考えれば、100点満点中10点でも身につきます。(しずる館フェスティバルだって、30点くらいの価値はあります)
考えなければいつまで経っても0点です。
平均点を取れないのは悪いこと、としている日本の教育が悪いのですが。

しずる館、一応愛想笑いで大きな声で笑ったけど、大して面白いと思いませんでした。

お笑いっていまこんなレベルなの?

ドリフターズなんて毎週生公演でテレビ放送やってたんだからね。

しずる館をテレビ放送しても視聴率で爆死するからね。

てかいまのお笑いってこういうのばっかなの?

伊達娘がこれで面白いと思うならば、問題やろなあ。
箸が転げてもおかしい年頃っちゃそうかもやけど、箸が転げても面白くなければ笑わん胆力も必要。

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