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2016年4月29日 (金)

おはよう。めっちゃ眠い。

かつてはGWになると嬉々として海外旅行しとった。

いま無理やからといって、ただちにダメとはいえんけど、また海外旅行行きたいなあ。


自民党の纏めた改憲草案読んだ。

緊急事態条項は間違いなく改憲の本丸やと思う。

ああ、眠い。

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日本の腐敗について」カテゴリの記事

コメント

生活保護者で遊びまわる
アホズラのおーにっちゃんおはよう

遂に生活保護は正当な権利と認める

おーにっちゃんの場合は
完全な努力不足

日立ウィズ 代表取締役 大西秀宜


会社概要


商号 株式会社日立ウィズ (HitachiWith.Co.LTD)
営業時間 平日:09:00~19:00
(電話対応18:00まで)
土 10:00~17:00
(電話対応17:00まで)
定休日 日祝祭日

所在地 〒140-0002東京都品川区東品川4-12-6 日立ソリューションズタワーB 22F
設立 1991年4月
代表者 大西 秀宜
役員 9名
資本金 28億円
従業員数 127名 ※関連企業含む
登録番号 関東財務局長(9)第00898号
関連企業 SBIリース株式会社
取引銀行 みずほ銀行、三菱東京UFJ銀行、楽天銀行、ゆうちょ銀行、りそな銀行、その他
登録機関 日本貸金業協会
電話番号 070-6969-9177
URL http://hitachiwith.webcrow.jp

1. 発症

私は演歌歌手の畠山みどり先生に巡り合い、女優・モデルの仕事をしながら平成21年1月頃から歌のレッスンを受けていました。

平成21年4月右肩に鋭い痛みを感じました。右肩を触ると小さな穴の奥に1mm位の小さなビービー弾のように硬い玉がありました。

痛みがあるので私は虫に刺されたのかと思いましたが、奥に小さな玉のような物があることが不思議でした。その年の7月にはそれが1cm以上になっていましたので、近所の整形外科で診察して頂き、「粉瘤(ふんりゅう)」だと言われ、近所の皮膚科での手術を勧められました。

「この時近所の皮膚科で手術をしていたら、肉腫だとは分からなかったかもしれない」と思います。

私は何か胸騒ぎがして某大学病院の皮膚科を受診しました。検査は何もしなくてただ手の親指と人差し指でしこりをつまんで動くか動かないかを見るだけでした。「良性の皮膚腫瘍の粉瘤(ふんりゅう)か石灰化上皮腫(せっかいかじょうひしゅ)で手術しなくても良い」と言われました。

次に私は他の大学病院の皮膚腫瘍の先生を受診しました。そこでも「良性の皮膚腫瘍で、卵位に大きくなるようならまた受診しなさい。」と言われました。

再度私は最初の大学病院の皮膚科を受診し、手術をしないで放置することに不安を訴えましたので、手術をすることになりました。女優・モデル・歌手をしているので、皮膚科よりも形成外科の方が傷口をきれいにしてもらえるからと手術は形成外科に回されました。

私の体調が悪く、いったん手術は中止になりましたが、しこりが細菌感染をしまして赤く腫れました。形成の先生は抗生物質を処方され、しこりの大きさは元に戻りました。「細菌感染をしたから手術で取った方が良い」と先生はおっしゃいまして、手術を勧められました。

私は手術をするのにレントゲン、超音波、MRI,CT,PET等の検査をしてもらえなくて不安でした。

それで、「検査はしないのでしょうか?」とお聞きしましたら、形成外科の先生は「病名は手術をして病理検査の結果が出るまでは分からない」とおっしゃいました。

2. 手術

平成21年12月14日手術は局所麻酔で日帰りでした。しこりの大きさが1.3cmでしたので、約1cmマージンを取りましたので、約3cmの切り口でした。

摘出手術後の病理検査の結果が1か月後に分かり、悪性の「高分化の平滑筋肉腫」と診断されました。先生が呆然とパソコンをご覧になっていらっしゃったので私もパソコンの画面を見ました。そこには「肉腫」という言葉がたくさんありました。

「先生、肉腫って・・・」私は絶句しました。平滑筋肉腫は知りませんでしたが、骨肉腫が悪性だと知っておりましたので、肉腫は悪性だと直感で分かりました。帰りの電車で私は涙が止まらず、泣いていました。

3. 肉腫診断確定後

悪性の診断が確定して主治医は整形外科の腫瘍の先生に代わりました。

半年位は傷口の保護をした方が良いとのことでしたが、私はサージカルテープでかぶれて痒みがあり「傷口でなければよい」と勝手に思って掻いてしまいました。診察の時先生は「掻くとその刺激で腫瘍が再発するから掻いては駄目だ」とおっしゃってテープを外されました。

先生から15時間に及ぶ整形外科と形成外科の2科合同の顕微鏡使用の皮膚、筋肉、神経を移植する再手術の話がありました。

それで念のため他の病院の先生の意見も伺いたいので、病理リポート、紹介状、腫瘍の標本のプレパラートを2か所分用意して頂きました。

私は2か所の病院の先生の診察を受けました。2人の先生は「高分化の平滑筋肉腫」と診断され、皮弁の再手術を勧められました。皮弁とは血行を保ったまま皮膚を移動させて、欠損部位を覆う方法です。

4. 転院

私のように最初に肩に平滑筋肉腫ができるのは珍しく、また小さいのも珍しいそうです。

後腹膜や子宮にできることが多いそうです。それで国立がん研究センターの先生が、原発巣が他にないか確認をしたいとのことで、私は「そこまで考えて下さるのならお任せしよう」と思いました。私は転院しました。

私が当時むち打ちでしたので、うつぶせでの15時間の手術に耐えられるか分からないこと、四肢マヒになる可能性があること、麻酔のガスの気管挿管の出し入れの時に声帯を傷つける可能性があることなどから手術は中止になりました。

私は女優と歌手をしているので、声が変わる可能性に不安になりましたし、手術してがんの再発転移の可能性が少なくなっても四肢マヒで歩けなくなることを怖れました。

先生は「放射線は逆にがんが発生することがあること、抗がん剤はあまり平滑筋肉腫には効かないし副作用があること」をお話し下さいました。「では私はどうしたらよいのでしょうか?」

先生は「笑顔は免疫力を高めるから辛いことがあっても笑顔でいなさい。」とおっしゃいました。

私は国立がん研究センターのHPで平滑筋肉腫の治療実績の5年生存率が33.6%で10年生存率が「-」になっていることをお聞きしました。

「―」はてっきり不明という意味かと私は思っておりましたが、先生は「10年生存率が0の意味である。0を塗り替えて希望の星になってください。」とおっしゃいました。私は「10年以上生きます」と先生に誓いました。

その先生は定年退職なさり、現在は別の先生に主治医になって頂いております。私は去年の12月無治療で再発転移無しで、手術後6年生存達成致しました。

(国立がん研究センターのHPの治療実績では10年生存率が0ですが、他の病院で治療した方を含めて現在10年以上生きた方で私が知っているのは2人いらっしゃいます。)

このことから10年以上生きるのは大変困難な病気ですが、決して10年以上生きることが不可能ではありません。

「立毛筋にできた高分化の平滑筋肉腫」というのが国立がん研究センターでの私の病名でした。

高分化とは、悪性の中で良性に近いそうです。立毛筋とは毛を立たせる筋肉です。平滑筋は全身にあり、どこにでもできる可能性があります。

特に子宮、後腹膜、肺などが多いそうです。私の場合は肺に転移する可能性がありますので、肺を中心に首から下のCT検査をしてくださっています。はじめは3ヶ月に1度でしたが現在は半年に1度検査をします。

頭の検査をしないことを質問しましたが、平滑筋肉腫は肺に出来てから頭に転移するそうです。

5. 腫瘍解析

主治医の先生の許可を頂いて某病院にてMR-CT検査と腫瘍解析をして頂きました。

解 析の結果、先生は、私の場合悪い細胞が少ないので、狙い撃ちができなく、抗がん剤や放射線は効かないので、もし再発転移した時には手術が第一選択で薬を使 う場合は新生阻害薬「パゾパニブ」を提案なさいました。

パゾパニブは国立がん研究センターが中心になって作られたお薬です。他にヨンデリスという薬も国立 がん研究センターで最近作られました。

平滑筋肉腫は8年や10年以上経過して再発転移する場合があり、油断できない病気です。

6. 肉腫治療拠点病院

「私と同じ病気の方々がどんどんお亡くなりになっていくことにただ悲しんで嘆いているだけではなく少しでも食い止めよう」と思いました。

「私が生かされていることで同じ病気の闘病している患者さんのために何か力になれることはないだろうか」と考えている時、ある患者さんのtwitterでの悲痛の心からの叫びの言葉「政治家の人に肉腫患者の実情を知ってもらいたい」が胸に突き刺さりました。

私は彼女に意見を聞き、肉腫治療や研究をなさっているお医者様、ご遺族、ご家族、患者さん、元政治家の先生にもご意見をお聞きして、要望書を政府に提出致しました。

おかげさまで肉腫治療拠点病院として国立がん研究センターに希少がんセンター、岡山大学病院にサルコーマセンターが設立されました。肉腫拠点病院が設立された時には既に彼女はお亡くなりになっていました。

彼女の遺志を大事に守って「引き続きがん治療・肉腫治療の治療環境改善のために政府に働きかけをしたい」と思っております。

7. がん患者支援・肉腫患者支援

音楽には痛みを和らげ、免疫力を高める力があるそうです。

私は、毎年日本対がん協会のRFL(リレー・フォー・ライフ)の会場で歌っています。

またがん拠点病院でコンサートを開催致しまして、がん患者さんに歌で支援しております。まだ肉腫についての社会の認知度は高くはありません。

お医者様など医療従事者の方でさえよくご存じないことが多いです。それゆえ、誤診も多く、そして肉腫の診断医、臨床医、研究医を志す方も少ないのが実情です。

また薬も患者数が少ないので他のがんに比べて開発が遅れています。お医者さんや患者さんが肉腫の知識があれば、「もしかしたら肉腫かも?」と肉腫専門医の診察を受けるようになると思います。

「一人でも多くの方々に知って頂くことが肉腫患者を助けることになる」と思います。

この記事をお読みくださった方、どうかご家族ご友人に「硬いしこりがあったら肉腫かもしれない」と肉腫の話題をしてください。痛みは人によってない人、ある人様々です。

医学を志す方、どうか肉腫の専門医・診断医の選択もご検討頂けたら幸いです。宜しくお願い致します。

最後にがん患者さん、肉腫の患者さん、一緒にがんばりましょう!

私は歌手なので歌で貢献できないか考えまして、寄付付きCDやチャリティコンサートの売り上げからがんの征圧と研究に毎年寄付をしています。

こちらで頂いた原稿料も一緒に寄付させて頂きます。

1、 癌告知から手術前まで

1994年5月尿が出なくなり、東京都町田市のあけぼの病院で、泌尿器科の診察を受けた。肛門からの前立腺の触診、尿検査、血液検査、膀胱腎臓のレントゲン検査等の結果、前立腺癌の疑いがあるとの診断だった。詳しい検査の必要があるとのことで、北里大学病院泌尿器科の穎川先生を紹介された。
2週間後大学病院でエコー検査と前立腺の組織を7個所から採取した。次の診察で、生検の結果から、前立腺に癌がありかなり進でいるとのこと。骨に転移しているか核医学検査をする必要があるとの診断だった。
 前立腺の全摘手術は3時間くらいかかり、予後は大変良いが、性の神経を切らないように手術しなければならない点が大変難しいのだそうだ。治療法としては手術が一番いいが、手術が出来ない場合は放射線治療かホルモン療法か、抗がん剤の服用による方法があるそうだ。ホルモン療法では副作用として動脈硬化をきたし、狭心症や心筋梗塞を起こすこともあるようだ。12年前心筋梗塞で、緊急入院し手術もせずに助かったことがある。さて自分の場合はどんな方法をとるのが良いのだろうか。
癌と闘うなんて威勢のいい強がりは言いたくない。癌は強敵である。死の病でもあるのだからもっと厳粛に受止めなければいけないと思う。癌とは死ぬまで付き合うのだから、仲良くしてゆこう。心穏やかにこれからの生活をしてゆこうと思う。
1週間後に核医学検査を受けた。
癌は骨にまでは転移していなかった、との所見。ただリンパ節へ転移しているかどうかはわからないが、前立腺癌であることは間違いなく、治療法としては摘出手術がもっとも効果的であるとのことだった。
心筋梗塞をやったことがあるので現在の状態を検査することになった。心電図、胸のレントゲン検査,循環器内科の診察、CT、MRI、心臓超音波検査、静脈尿路造影検査をした。
手術をすることの結論を出すことは大変なことなんだと思った。と同時に親からもらったこの身体に刃物を入れるなんて何と親不孝なと、思っていただけに何ともいいようのない気持ちになった。
これまでの検査から手術の必要があるとの最終的告知があった。
9月1日入院、8日手術と決定した。手術は98%安全だが絶対安全だとは言えない、盲腸の手術で一命を亡くす事だってあるとも言われた。
覚悟は出来ているがちょっと心配な点もある。癌は死にいたる病であり、とても太刀打ちして闘うなんて出来るものではないので、逆に仲良くして、出来るだけ長く付き合うような気持ちでいようと思う。
入院前日、入院直前の検査ということで、尿検査超音波検査、MRI、血液検査、止血検査、心電図、胸のレントゲンと続いた。一番参ったのはMRIだった。点滴を打ちながら磁気装置の中に入る。検査が始まると太鼓を続けざまに打つような音、次は建築工事現場でのドリルを打ち込むような騒音が耳元でする。これを5、6回繰り返し1時間位やった。これには参った。
前立腺癌の手術は予後は大変良いそうだ。医学書にも書いてあった。現在は転移は見られないそうだから悪いところをとってしまえば、一番良いのかもしれない。ここまで来たのだから、現代医学を信じ、医者を信頼して手術に賭けることにした。

2 手術直後


入院して初めての検査は血圧、体温計測と尿量測定だった。2日目午後肺活量の検査。担当の医師から、「手術は11時入室、12時開始し2,3時間かかる。心筋梗塞をやっているので管を普通の人より多くつけることになる。1ヶ月後には職場復帰が出来るだろう。尿漏れは約1ヶ月位で何とかなるだろう。」 との話だった。
手術承諾書が渡された。それには前立腺全摘手術及びリンパ節廓清術を行うが承諾するか、という内容だった。
夕食後麻酔科の先生の問診と手術についての説明があった。「前立腺手術では出血が多いため普通には、自分の血液を抜いて薄めて貯めて置き手術後、徐々に元に戻してゆく方法(抜血)を取るが、心筋梗塞をやったためこの方法が取れず、輸血することがあるかもしれない。手術後どの方法をとったかは説明する。」とのことだった。
前日の午前中胸から下腹部までの剃毛をし、入浴。午後から麻酔科の先生がこられ、「抜血の方法はとらないことになり、全身麻酔でなく、局所麻酔でやることになった。睡眠薬を注射し、痛み止めも打つから安心して手術を受けるように。」とのことだった。麻酔の方法はいくら説明されてもよくわからない。
夕食後、手術室の看護婦の問診があった。消灯前には主治医の穎川先生がこられて「手術はうまくゆくから安心して任せてほしい。細かいことは心配しないでよい。」と言われた。頑張れ、安心せよ等と言われても患者にはなにも出来ない。頑張るのは先生と看護婦さんだと思った。執刀する先生と看護婦さんにお任せするだけだ。医師を信頼し、医師のいうことにしっかり従ってゆく以外にない。そうすることが一番大切なことだ。
 「先生、看護婦さん頑張ってください、お願いします。」
手術当日の朝排便。昨夜の下剤は、お腹の中を空にするためのものだった。注射をしストレッチャーに乗せられ病室を出たのは10時頃だった。そこから先は何も覚えていない。昨夜は熱が出たようで、氷枕をし両脇には氷嚢を当て、電気毛布に包まっていたようだ。酸素吸入の管を口にわえ、鼻に管が差し込まれ、腕には点滴の針が刺さっていて身動きできない状態だった。
次の朝には熱も下がった。昼に痛み止めの座薬を入れてもらったので痛みもなくなった。看護婦さんが、来て「さあ立って歩きましょう。」と言われて、やっと立ち上がり、つかまりながら歩いてみた。
導尿管が少し動いて出血した。背中がなんとなく痛む。チーフのC先生から手術の経過が話された。「前立腺全部とリンパ節の悪いところは取ったが、これから組織の培養検査をしなければならず、2,3週間かかるだろう。退院して外来で来た時に説明があるだろう。」とのことだった。点滴と下剤をかけ、痛み止めの座薬を入れてもらって休む。
C先生の回診。「今週の木金の2回に分けて抜糸をする。来週の金曜日には導尿管を抜く。あとは食事をしっかりとれば日に日に回復する。切りとった部分は顕微鏡検査に回っている。ほとんど大丈夫だろう。」とのこと。
しっかり食事をとり、運動をするように言われた。運動といっても導尿管がさしてあるし、点滴もしているのでまだ出来ないが、点滴を支える車を引きながら歩くことは出きるので、食事の前には廊下を一周するようにした。
夜なかなか眠れない。安定剤を出してもらった。昨年前立腺全摘とリンパ節廓清術をし、今年になって残したリンパ節に癌が見つかり、再入院し放射線治療をした人が明日退院する。しかしあと半年くらいしかもたないそうだ。元気そうな人だが。また膀胱と前立腺を摘出手術をし、人工膀胱を尿道とつなげる手術をした人がいたが、昨日は元気に病気の話をしてくれていたが昨夜は大変苦しんだようだ。
癌と闘うなんて、大それたことはしない、これから一生付き合っていかなければならないのだから、仲良くしようと思っている。暴れず静かにしていて欲しいと願っているだけだ。
便秘していたが、浣腸をして気持ちがさっぱりした。回診があってB先生が抜糸(ホッシキスの金具のようなもの)を半分した。下腹部の皮の薄いところなので痛かった。それにお腹の左側に差してあった、血を抜く管2本(SBチューブ)を抜いてくれた。痛かった。15cmもある金属製のチューブが2本も入っていたのだから腸の調子が悪くなるのも当たり前だ。身が軽くなったような気がする。
次の日、部長先生の回診があり、C先生が残り半分の抜糸をしてくれた。看護学生が全身を拭いてくれ、ペニスの先の消毒、ガーゼと腹帯の取り替えをしてくれた。
同病の先輩が、尿導管がぬけた後の尿漏れについて教えてくれた。排尿のタイミングを掴むことが大切だと教えてくれた。尿導管が抜けたばかりのときはオムツをつけ、ベットには下敷きを敷いてくれるが、ペニスの先には尿パットを作ってつけておいたほうが良いとも教えてくれた。いろいろ経験した上での知恵を大切だ。教えてくれてありがたかった。
シャワーの許可が出た。B先生から「術後5年間無事に過ごす人は80%。これからは初めのうちは月に2回、徐々に月1回、3ヶ月に1回、半年、1年に1回といった具合に外来で診てもらうように。」とのこと。
C先生の回診で「尿導管を抜いたらいつ退院してもよい。」主治医の穎川先生 も 「後1週間で退院していいだろう。」といわれたが、ちょっとした調子で尿が漏れてしまうので、その調節の仕方が分かるまでいたいとお願いした。食事が常食になったのでまた便秘するようになってしまった。
明日尿導管が抜けるので、抜いた後の処置について看護婦さんに聞いた。
 ・オムツをする。(カバーは蒸れるのでしない方がよい)
 ・オムツの上からパンツをはく。
 ・初めてのオムツで、どれくらい漏れたか確認して交換する。
 ・ペニスを蒸しタオルで拭いて清潔にしておくこと。
いよいよ尿導管が抜けた。オシメをしパジャマに着替えた。身が軽くなった気がする。
尿は出ているのか出ていないのか全く分からない。横になっているときに、少し体を動かしただけでジイート漏れてしまった感じがする。これが止まらないと駄目だ。尿意を催したらすぐにトイレに行く事。立ち上がって2、3歩歩いたところでチョロット漏れる。トイレに行って容器を向けると1回に150cc位意識的に出せるようになった。後は肛門を閉める練習をして括約筋を強めることだ。そして立ち上がったときとか、歩きはじめたときに漏れないようになればよい。これが出来るようになるのに2ヶ月くらいはかかるようだ。この練習に励もう。
朝起きてカーテンを開けようとしたときチョロット出てしまった。何か次の行動に移ろうとすると出てしまうようだ。そして量も多くなってきた。朝の1回目に大部分が漏れてしまった。C先生の回診で「データは良好。肛門を閉める練習をするように。」といわれた。
排尿量は昨日一日で2150ccで良好だった。肛門の締め方の要領が分かってきた。股間をきつく締め付ける運動がよさそうだ。尿量記入用紙を見てきたB先生が「漏れた量も120cc位で少なく、立ち上がったときも、ドバーと漏れるようではなく順調のようだ。」といわれた。肛門を締める運動をすることが唯一の方法のようだ。動きはじめるときとか、緊張したときに漏れてしまう。気にしないようにした方がいいかもしれない。私の後から手術した人と同室になった。いろいろ教えてあげた。大学の先生で膀胱癌で、摘出手術し、人工膀胱をつけることになった人もいた。皆さんを励ましてあげた。
看護婦さんから「尿漏れの状態がよいからオムツはやめて小さい尿とりマットか尿キャッチにしたほうがいいだろう。」といわれた。
4週間で退院。これからの生活がちょっと不安だ。尿の漏れがなくならないことにはどこにも行けない。何とか頑張らなくてはと思うが、どうなるだろか。


3. 退院後の経過


退院後、尿は相変わらず、漏れてしまう。夜起きる回数も減ってきたし、オシメを取り替える回数も減ってきた。日に日に良くなってゆくようだ。退院後初めての外来診察の日。主治医の穎川先生から「切り取ったリンパ節には転移は見られなかった。病理検査の写真8枚に悪性の腫瘍が写っていた。膀胱に近い方から黒い部分が順に3割くらいから8割くらいまであった。先生は「癌が前立腺の周辺に残っていたのかもしれない。また組織を採って調べる必要がある。その結果によっては放射線治療をしなければならないかもしれない。」とのことだった。2週間おきに2、3ヶ月通院診察をすることになった。退院後2週間目あたりから尿の出が悪く、尿道も痛くなってきた。診察予定日ではなかったが病院に行ってみてもらった。尿検査の結果尿が大変汚れていて、何か菌が入ったのだろうとのことだった。抗生物質の薬を飲んで様子を見ることになった。尿道が痛みはじめた。30分おきに痛みが出る。だんだん痛みが激しくなって我慢できなくなった。午前3時過ぎだったが、病院の救急医療センターに電話をしたところ受け入れてくれた。手術をして尿道をつないだところの内側に、肉が盛り上がってきて尿道をふさいでしまたのだ。そのため膀胱に尿が溜り出ないのだ。尿道が狭くなっているので、順に広げるために、4ミリのカテーテルから5ミリ、7ミリ、と順に入れ替えて尿道を広げていって14ミリまで通した。7ミリのカテーテルを通したところで膀胱のあたりを押して溜まっていた尿を出してくれた。沢山の量が出たので気持ちが良くなた。処置に1時間半くらいかかった。次回の定期診察の日までカテーテルは通しておき、主治医の先生の診察を受けること。特に薬を忘れずに飲むこと、ペニスを清潔にしておくこと、の三点を注意するようにいわれた。
こんなに苦しむのなら手術などしなければよかった、と思ったりした。尿が垂れ流しの状態で、しかもこんなに痛くては表にも出られなくなってしまう。手術などせずに癌とともに生活し、天寿を全うすることを考えた方が良かったように思う。70歳までは勤めようと思っていたが出来そうもない。
尿道に通してもらったカテーテルの先は栓でとめてある。栓を抜いて尿を出してみた。2時間おきに出すようにすると慌てずに済む。しかしペニスの先から漏れ出してしまう。テラマイシンをペニスの先に塗ってガーゼをまいておくことにした。尿意を催すと先から漏れてしまう、何遍かパンツ、シャツ、ズボンを濡らしてしまった。
外来診察日に、カテーテルを抜いてもらい、尿道の洗浄をした。思うように出てうれしかった。止めることも出来た。暫くぶりに入浴もした。薬を2週間分もらった。
11月3日(文化の日)午後から具合が悪くなり管を通してもらおうと病院に行った。管が思うように通らなかったので入院することになった。翌日から毎日4時間おきに39度以上の熱が出るようになってしまった。抗生物質の点滴をし、氷嚢を両脇にいれて冷やした。1週間続いた。腎盂炎を起こしてしまったようだ。苦しかった。14日尿道の造影と内視鏡検査をした。膀胱の出口の尿道が詰まっているのだそうだ。手術からまだ日が浅いので、後4ヶ月位したところで、まだ詰まるようだったら手術をしなければならないだろうとのことだった。とりあえず退院した。次回の診察のときに尿道のエコー検査をすることになった。その後暫くは具合よかった。
12月になって、尿の出が頻繁で、トイレに行く回数が多く、1回に出る量が少なくなってきた。1日20回、1回に200cc、合計量は十分なのだが、夜5、6回トイレに起きる。リンパ節の廓清術をしたので神経が鋭敏になっていて、すぐに尿が出たいという命令をしてしまうのだそうだ。寒さが厳しくなってきたためか、回数がますます増えてきて、漏らしてしまう回数も増えてきた。1日に23回もトイレに行ったりした。夜は寒かったので、尿瓶で取るようにしたが1時間おきだから大変だった。3月まで待つのが苦しかった。
3月23日入院して24日に手術したが、盛り上がった部分がつかめず、巧くゆかなかったので、とりあえず、膀胱に直接、管を通して尿を取るようにしてくれた。楽にはなったが、膀胱から管が出ている。
27日2回目の手術をすることになった。膀胱からとペニスの先からと尿の通る道を探そうとしたようだが巧くゆかなかった。29日3回目の手術をした。盛り上がった肉が切り開かれて尿の通り道がついた。ほっとした。尿の通りが良くなって具合が良くなり退院できた。
その後尿の調子は順調になった。尿の切れは良いとは言えないが、ここまで来ればいいとしなければならないだろう。陽気もよくなり今まで遣り残していたことをやろうという気力も出てきた。WINDOWS95のインストール、インターネットへの接続、等も出来た。また囲碁の会にも毎週土日に出られるようになった。それに、月一のゴルフも、コースに出られるほどになった。

11月になって、定期の診察があった。生検では3個所から組織を採った。腫瘍マーカ値は、今まで4月 0.1>、 5月 0.1>、 7月 0.1、 10月 0.3、11月 0.2と変化してきた。
 「 0.1> なら問題無いが、0.3 というのは5年後に大きな癌細胞が出来る可能性が十分にある。」との診断だった。腫瘍マーカ値が不安定な変化をしているので、今のうちに放射線治療をした方がよい。生検の結果を見て結論を出すことにすると言われた。11月生検の結果癌細胞はなかった。しかし腫瘍マーカ値の不安定な変化から,尿道の近くに癌細胞があることは間違いない。そこを放射線照射して癌細胞をたたいてしまえば完全に治癒することができる。もしこれをしなければ、どこか別の場所に転移し大きくなることは間違いない、そうなってからでは放射線治療は出来なくなり、ホルモン注射による治療になるが5年持つかどうかだ。今のうちなら放射線治療が効果的なのだ。との所見であった。
放射線科の診察があって、治療方針が立てられ放射線を照射する場所の指定をする。
12月1日から1周間に5回で、30回照射をすることになった。副作用としては、3回目あたりから下痢する人がいたり、15回目あたりで二日酔いのような気持ちになったりする人がいたり、30回近くなって排尿の終わりに尿道が痛む人がいたりするが、これらの副作用はそのうちなくなる。また白血球が少なくなることもあるので白血球を調べた。

12月1日から放射腺治療が始まった。放射腺照射治療室は広い部屋で、大きな放射線照射機1台部屋の中央にあるきりだった。1日1回2グレイの放射線を30回、全部で60グレイ照射することになった。1回僅か40秒で終わってしまう。1日おきに前と後を10回づつ照射する。あまり簡単なので、これで効果があるのだろうか疑問に思ってしまう。腸の動きが活発になってきたような気がする。1週間目に泌尿器科の診察があった。貧血検査をした。1週間後に結果が分かった。白血球数が5800から4700まで下がっていた。12回照射をしたところなので、このくらいの低下は正常だとのことだった。下痢の薬を出してくれた。腸の内壁がただれてきて肛門まで痛くなることがあるそうだ。16回目の朝、何回もトイレに行ったが下るだけで、胃と腸が痛んだ。20回で暮れの休みになるのでその頃には落ち着くだろうとのことだった。20回目が終わった頃には、便は下るし、血便は出るし、食欲はなくなってくるし、なんとなくだるく気力もなくなってきた。12月29日から1月4日まで静かに過ごした。いくらか落ち着いてきたようだった。5日放射線科の診察があり、これからは側面からの照射なので、照射の狙いを決めるためのレントゲン写真を2枚取った。側面からの照射は深さが、深くなるため毎日左右両方から照射することになる。放射腺照射は身体に相当な負担になるので、2、3ヶ月は無理はしてはいけないし、腫瘍マーカ値検査は、定期的にしなければいけない。との診断だった。

1月9日ミッテラン全仏大統領死亡の記事が一面に載っていた。大統領在任中の92年9月前立腺癌の手術をし、94年7月に再手術し、昨日1月8日に死去した、とあった。

昨日の新聞には主治医の穎川先生の前立腺癌に対する治療法と業績が大きな記事で出ていた。先生に診てもらってよかった。穎川先生から経過がよさそうだ。一時、4000台まで下がってしまっていた白血球も7000台まであがってきた。との診断だった。腸の調子も良くなってきた。副作用も収まり、体調も良くなってきた。パソコンをやる気力も出てきた。1月19日放射線治療が終わった。放射線科の先生の診察があった。今後は泌尿器科の継続的な検査と診察を受けること、特に骨の検査が大切で、骨に転移したときはまた放射線治療が効果的である、とのことだった。

今度の放射線治療をしたことから病気のことをもう一度考えることにした。前立腺全摘手術を受け、癌の再発の可能性の高いことから放射腺照射と言うことになったわけだ。現代医学を信じ、医師の指示に従い処置をしてきた。癌は強力な相手で、とても立ち向かって闘うなんていうことはできないことは明らかだ。よく病気に負けず頑張ってください、なんて言われるが、病人は頑張るなんてことは出来ない。頑張ってもらうのは医者であって患者ではない。医者が一生懸命頑張って治療にあたってもらい、患者は医師を信頼してお任せすることだと思う。癌と診断されたら、一生癌との付き合いをしなければならないのだ。だから癌と仲良く付き合う方法を考えるべきだ。癌には、暴れず騒がず、静かにしていてくれと願うことだ。癌に効くからといろいろ薦めてくれる人がいるが、私は余り信じない。また、自分のことは自分が一番よく知っている、等といって医師を信じない人がいるが、素人判断も甚だしい。自分が一番のやぶ医者だ。現代医学の専門家の診断を信ずることが一番大切なことだと思っている。

勤めは昨年3月で辞めてしまいましたが、1998年3月現在、気を緩めると多少の漏れはあるが、極めて、順調に、安定した生活をしている。パソコンでインターネットを楽しみ、土日は公共施設で囲碁を楽しみ、運動は月一ゴルフができるようになり、経済的には豊かではないが、趣味で豊かな生活ができるようになった。ありがたいことだ。


長いこと、退屈な文章をお読み下されありがとうございました。

出張で地方へ行った時。
夕食がてら軽く飲んでホテルに帰ってきて、暇だったのでデリヘルを呼んだ。
同業のメーカーの営業の人が教えてくれた所だ。

すぐに大丈夫と言われ、待つこと25分、やってきたのは、
TBSの枡田絵理奈アナ似の20代半ばのお姉さん。
仲々可愛い。まだ始めて2週間と初々しいマスパン。

キスしたりしながら一緒にシャワーを浴びて身体を洗いっこしてベッドへ。
ポッチャリではないが、ムチッとしたエッチな身体をしていた。

「どうしますか?責めるのと攻められるのと?」
「ぁああ・・じゃぁ最初は攻めて・・」と言うと、
俺を寝かせて、キス・・乳首舐め・・乳首舐めしながらの手コキ・・
フェラと攻めてくるマスパン。

フェラもソコソコ上手だったが、何か物足りなかった。

「今度は攻めさせて」と攻守交替。

寝かせたマスパンを同じように、キス・・オッパイ攻め・・
Dカップ位のお乳は弱いみたいで揉んで乳首を吸って、噛んで、摘んでとしてたら、
「ぁああん・・いやん」と喘ぎだした。

乳首を舌で転がしながら、薄いヘアのマンコに手を這わすと、グチョグチョに濡れていた。
指を入れて弄ったり、クンニすると、
「あああん!だめぇ!いっちゃいそぉ」と制止してきた。

「ごめんなさい・・私がきもちよくなっちゃてぇ・・」
「いいよ、続けようよ」
「ダメですぅ・・今度は私が・・」
「じゃぁ、素股して」
「はい・・」とフェラをしてから俺に跨り、素股を始めた。

「あまり上手じゃなくて・・ごめんなさい」と腰を前後に振るが、
確かにあまり上手じゃない。
しかし・・濡れ方が凄かった。
どんどんと愛液が出てきて、『ヌチュヌチュ』とエッチな音を立てながらどんどん白濁していく。
ローションがいらない!

マスパンも仕事を忘れて、
「あああん、気持ちいい、おっきぃ」と目をつぶって喘いでいる。
腰の動きも大きくなり速くなっている。
「あああ!イッちゃいそう!」と大きく動いた拍子にチンコが入ってしまった。

勢いがあったので子宮口を激しく直撃!
「あああっ!逝く!」と膣を急激に締めて、身体をビクンビクンさえて逝くマスパン。
俺の上に倒れ込んできて痙攣してる。

「はぁはぁ・・ごめんなさい・・私が・・逝っちゃってぇ」
「いいよいいよ・・中・・気持ちいいし」
「あっ・・ダメです・・会社に怒られちゃう」と抜こうとするのを、
両手でお尻をガシッと鷲掴みにして押さえた。

「いいじゃん、もう入れちゃったしぃ」と下から突き上げる。
「あん!だめ!いやん!やめて!ああん!」と言うが、
おれにキツく抱きつき、感じ始める。
マスパンが仕事を忘れて喘ぎ捲ってる時、身体を入れ替えて正常位で突き捲る。

「ああん!いい!おっきぃ!」と喘ぎ捲るマスパンは、
俺の首に抱きつき、両足を俺の腰にキツく絡めてきた。
より深く挿入されるので、子宮口をガンガン突くと、
「あああ!イッちゃう!イクイク!と膣を締めだした。

コッチもキツく締め付ける膣に限界で、
「俺も!イキそう!」
「あああ!な、中には出さないで・・あああ」と言うが、
ラブラブロックされてるので、抜けないので中に出した。

マスパンも逝った。
「あああ・・いやぁあ・中に出てる・・」
「はぁはぁ・・挟まれたら抜けないよぉ・・」と抜くと、
精子がダラ~っと垂れてきた。それを見て泣きそうなマスパン。

時間もまだあったので、「1回ヤッちゃったからいいでしょ」と強引にもう1回戦。
ナマで挿入して、色々な体位を楽しんで、最後はバックで
「中はいやぁ」と逃げようとするのを腰をがっちり両手で掴んで突いてまた中出しした。
また中出しされて泣きそうなマスパンに、
「いつも本番ヤラせてるの?」
「ち、違います・・今日が初めて・・たまたま入っちゃったんです」
「お姉さんが感じ捲って入れてきたんだから・・会社に内緒にしてくよ」
と言って返した。

その後、2回位、指名した。
やはり、半ば強引にナマで中出しした。
3回目に指名した時には、もういなかった。

 皆様こんにちは、bastianiniでございます。
 ここ数回の連敗から、一旦モチベーションを取り戻そうと仕事の合間を見ながら,以前大当たりだった嬢の出勤を毎日チェックしておりました。しかし全く出勤せず、出勤しても予約で一杯・・・しょうがないので目をつけていた良さげな嬢の出勤もチェックしつつ電話をするも,毎回「今日は予約で一杯で」とか「今日は急遽早上がりしてしまって」など、利用する前からブラックか?と思うような状態でして・・・
 そんなデリ嬢チェックの日々が3週間ほど続いたある日の夜中・・・・・もう限界!女体に触れたい!と欲望が湧きあがり片っ端から店に電話。HPや情報誌などを網羅しながら予約を取り付けようとしますが,なにせ週末、中々良い嬢にたどり着けない。そんな中「・・・もう誰でもいいや」という境地に達してしまい決めてしまったお店がこちら

{店名}いちごいちえ
{業種}デリバリーヘルス
{HP}http://www.cityheaven.net/h/ichigoichie/
 (お店自体のHPは無いようでヘブンにとびます)
{電話番号}090-9431-7008
{料金}18000円(90分15000円 指名料2000円 交通費1000円)
{嬢}Z嬢

お店「はい、いちごいちえです」
私「えーと、今から来れる子いますか?」
お店「はい、大丈夫ですよ。どちらのホテルになりますか?」
私「街中になります。あのーできればスタイルがよくって少々年齢が高めでサービスが良い子が希望なんですが」
お店「はい、ではZちゃんがお勧めですよ。ちょっと待ってください(後ろでゴソゴソ言ってる)。・・・大丈夫です。今からご案内できます」
私「ではその子でお願いします。」

 このような流れで予約決定。早速街中のホテルに入りお店に電話をすると15~20分で来れるということ。まぁ今日の目的は女体に触れる、ということだしある程度の地雷でも大丈夫、スタイルさえそこそこ良ければ後は楽しもう、と自分に言い聞かせテレビを見ながら待ちます。

 ちょうど20分ほどで嬢が到着したようでドアをノックする音が。返事をすると嬢が入ってきます。なるほど、このお店は玄関先での店員氏の注意事項説明は無いみたいです。

 「はじめましてー」と入ってきた嬢を見て・・・はい、やってしまいました私!やはり焦ってはいけなかった・・・・何度同じ過ちを繰り返せばわかるのでしょうか?自分に腹が立ってきました。
 お顔の方は・・・残念すぎます・・・ちょっと遠くから見ると、え?60歳くらいですか?と思うほど老け顔です。点数をつけさせて頂けるなら15点といったところ。スタイルは・・・うんどっちかというと悪い方に入るのではないでしょうか?極端に太っている訳ではないのですが全体的に、特にお腹周りには結構なお肉がついています。改正さん、このお肉引き取って頂けませんか?と脳裏に浮かびました・・・

 しかし来てしまったからにはしょうがない、出来るだけ楽しもうと会話に花を咲かせようと試みます。「初めまして~」から始めて「ごめんね~こんな遅くに。疲れてない?」「何か飲む?」などなどご機嫌を伺いながら話していきますが、全くもって会話が成立しません。何を聞いても「はい」「いいえ」と相槌を打つだけで会話に発展しません。「緊張してる?」ときいても「少し・・・」と帰って来るだけ。その後は静寂に包まれます。
 私の方から話しかけないと全く会話がない状態、たまらず私からシャワーを催促します。

 服を脱いだ嬢は・・・全体的にやはりお肉がついていますが、やはりお腹周りから腰、足にかけての肉付きはかなりなものです。これでは・・・今日の唯一の目的である女体に触れるということさえままならなそうだ・・・そう思いながら嬢の洗体を受けますが、局部をチャチャっと洗われただけで、なぜかその後ずっとシャワーを肩から掛け続けられます・・・・もちろんこの間全く会話なし・・・はっきり言って拷問です。私の方からもういいよと断りを入れてそそくさとベッドに移動します。

 見た目、スタイル、会話・・・今のところ全敗です。唯一残されたサービスもこの調子では・・・1ミリ程度の期待を胸にベッドで待っていると嬢が上がってきてベッドにイン、自ずとこちらからの攻めでスタートです。

 まずはキスから始めますが、当然全く受け止めてくれません。歯の矯正でもしてるんですか?というほど唇が開きません。しょうがないので胸に移行、乳首からおぱーい全体を揉みしだき再び乳首攻め、といった流れでしたが、嬢の方は全く微動だにしません。これは手ごわい・・・そう思いながら秘部に手をやってみますが当たり前のようにカラッカラです。クリを攻め、中を攻め、クリを攻め、乳首を攻め、と私のつたない技術ですが一生懸命ご奉仕させていただいたのですが、仏像のように動きません・・・声も出してくれません・・・恋人感を出してみたらどうか?と思い嬢の手を私の首に誘導し抱き合うようにしながら攻めていきますがダッチ○イフのように固まったままです・・・いったいどうしたんだろう?という思いから嬢の顔を見てみます。そこで目が合うと、「うんうん」と小さく頷かれました。全く意味が分かりません。が、おそらくは・・・「お前のテクニックはそんなものか。まぁよくやったよ」といった意味合いなのでしょうね。本日は頑張ったつもりなのですが、私の努力はここまでです。攻守交代を申し入れます。

 嬢の攻めなのですが、当然キスは無いのですが,乳首舐め等も全くなくいきなりF口撃からのスタートです。
 テクニックは・・・いたって普通です。少々やさしめの強さで私的には物足りません。全身リップとかないのか?と思い嬢の頭を私の愚息から離そうとしたのですが軽く拒否されました・・・ここで本日全てを諦め、その後延々と嬢のF攻撃のみを受け、最後は自分で軽く擦りながらの発砲となりました。

 少々時間が余りましたが、やはり会話もなく、しょうがないので二人で無言のままテレビも見て、時間となりバイバイとなりました。

 それでは評価です(10段階にて)

●嬢・・・・・1点
 残念です。それに尽きます。後程HPで名前を確認したところ簡単に情報が載っていたのですが、ほぼ全てでたらめです。合ってるのは身長くらいでスリーサイズや紹介文など嘘が過ぎます・・・見た目重視、スタイル重視の方には全く持ってお勧めできません。 ●受付・・・・・3点
 こちらも標準以下です。話し方や嬢の紹介の仕方などどこか面倒くさいような言い方でした。後、他のお店でもそうなのかは分かりませんし、基本私は指名する派なのでこういう注文方法はしません。なので正解は分かりかねますが、上記に書いたような注文の仕方で指名料がかかっていました。これで満足できるような嬢なら気にもしなかったのですが、地雷嬢で1000円取られると納得できません。
●サービス・・・・・1点
 サービスを受けた記憶があまり残っていません。Fだけです。私の技術不足は大いに認めるところなのですが、いくならんでも無反応過ぎます。私の風俗の歴史でも断トツでナンバーワンです。せめて・・・せめて少しでも・・・声だけでも出してくれたら私もここまでショックは大きくなかったのですが、しばらくまたM性感にしか行けない体になってしまいました・・・・
●総合・・・・・1.5点
 ビックリするほどのダッチワ○フ嬢でした。また、見た目、スタイル、サービス、会話、気遣い等ここまで地雷だと逆に清々しい気分になりました。私的には何故デリヘル嬢としてやっていけてるのか分かりません。おそらくはフリー要員だと思うのですが、それにしても酷すぎます。
 やはり北見では、特に週末は結構デリヘル込み合うようです。私もこの日4件断られてます。そこで我慢できずにフリーで呼んでしまうとこういう結果になるんだと再確認できました。こういう場合、いったん落ち着いて翌日にするとか、前もって予約するとかが大事なようです。

 北見でフリーは危険だとあれほど・・・・しかもフリーなのに指名料とられてるし・・・この件に関しましては私の中では無かったことになっています。次こそ・・・次こそ・・・

 長文・駄文ではありましたが、お読みくださりありがとうございました。

 いつもお世話になっております。「三度のクソよりう○こ好き!」総務部のぴんでございます。ゆうすけさんお元気ですか?(笑) あくまでう◯こをするのが好きなだけで、それ以外は基本NGでございます。

 例年12月に掲載されるあたしのレポートは、かねてより行きたいのがヤマヤマだったお店を厳選して調査しております。今回も師走レポ第二弾!普段当会サイトは専らスマホで閲覧しているのですが、久々にPC版を見てみると、地元にバナー未レポ店があるではないですか!? ということで、ぶらり途中下車で船橋に降り立ちます。

レポートNo.128
お店:全裸スペシャル
場所:千葉県船橋市本町
日時:平成27年11月下旬 21:00頃
料金:80分18,000円(アンケート割)+ホテル代4,200円
HP:http://zenra-f.com/
HP:http://zenra-f.com/i/

 HPの体裁はどこかで見たことあるような・・・。しかも姉妹店は痴漢電車でございます。店員さんに『系列なの?』と訊ねてみるとそうでもないような様子です。FCなのでしょうか?システムは五反田とかと丸っきり同じでございます。
 事前に気になる子をチェックしておりましたが、第一希望はいないよう。パネルは6枚並びます。HP上ではこんなに出勤があるのかい?と思いながらも、その点に関しては信憑性がありました。6枚中5枚は目隠しなしで、修正はほぼ無い感じです。何故かと申しますとほとんどタイプではございません。なかなかのバーチィレベルでございます。
 そんな中1枚だけ輝いているパネルがあるではありませんか!目隠しの子はスペックは申し分無し。さぁどっちだ!と考えていると、店員さん2名がイチオシしてきます。ちょこちょこどんな子か尋ねていると、後ろのパーテーションからも店員1名が乗りだし、『間違いありません!!』と薦めてきます。最近このパターンはイマイチなケースが多いのですが、結局乗せられお願いすることとなりました。
 お約束の「酢・醤油」を渡され、ホテルに入り、シャワーを叩いてコロンを浴びます。もう匂いがつきまくりです!!

 ノックがあり扉を開けると中背スレンダーで長髪のあたし好みの子が佇んでおります。しかもコートの中には柔肌が見え隠れしております。
 部屋の中に引き入れコートを脱がせ,そのまま抱き寄せます。口唇を重ねると柔らかく弾力があり、そのまま舌を絡ませ合います。それだけでもうぴん太郎はフルボッキでございます。
 ベッドへ優しくエスコートし寝そべらせたら、お互いのやる気スイッチが点灯します。普段はアイマスクを面倒臭くて外してしまうのですが、この雰囲気を楽しみたいと思わせる嬢であります。むさぼり合うディープキスに加え、胸は形良し!揉んで良し!感度良し!と三拍子揃い踏み!!おま◯こに関しても形がとてもきれいで、臭い無し!隙間なし!愛液なし↓とまずまずです。こちらが責めているときの何気ないぴん太郎へのタッチも秀逸で、あっという間に込み上げて来そうな勢いです。あたしにはアローゼン氏ほどテクニックは無いので、そこそこにしてぴん太郎を彼女の口へ近づきます。

 彼女は仰向きになっていたのですが、ぴん太郎をパクッと咥え、腹筋を使ってじゅぼじゅぼと一生懸命しゃぶってくれます。ここは負けじとこちらも責めさせて頂いて,多少インテリジェンスになってきました。その後体勢が入れ替わり、気持ちいい弾力のある胸が当たるのが敏感に反応し、はっしゃおうらい!!

「ぴゅっ、ぴゅっ、ぴゅっ、ぴゅ、ぴゅ、ぴゅ、ぴゅ、、、ぴゅ」

アイマスクを取ると、あたしにとってはドストライク!!人懐っこくなった若い頃の村上里佳子さん系の子でございました!!
 その後は二人で仲良くトークタイム。前回大塚のレポと同様にトークが長くなってきますが、この子に関しては嫌みも無く,話しているだけでとても楽しい子でありました。近くの距離で見つめ合って話しをする時間はとてもいいものです。
 そこそこの時間が経ったところで、彼女が悪戯心を出してきます。あたしにアイマスクをして責めまくってくれるとのことでお願いをしました。

 このテクニックがたまらなく気持ちよく、全身リップだけであたしはガクガク。こんなところを舐められたたけでこんなに感じたのは初めてでございます。もちろんぴん太郎はびんびんパラダイスでございます!!はっしゃおうらいの気配も焦らしに焦らされ、時にしてもらえるキスがとても「♪」でございます。
 せっかくなので素股を所望し、彼女にしがみつきながら身体の触れ合いを楽しみます。もう不惑のオヤジのプライドをかなぐり捨てアンアン感じまくり、最後はフェラで思いっきりはっしゃおうらい!!

「ぴゅっ、ぴゅっ、ぴゅっ、ぴゅ、ぴゅ、ぴゅ、ぴゅ、、、ぴゅ」

2発目なのにも関わらず、1発目と同じ量が出ました!! しっかり数えさせて頂きました。そしたらこの手のプレイのお約束・・・・・・、

ぴ『あ゛ーーーー!う゛ーーーー!!』

 軽い拷問を受けシャワーを浴び、ホテルを出てしばし二人で並んで歩きます。こんな子が彼女だったらと思わせる素敵な子でありました。再訪を約束させて頂きましたが彼女から気になる一言が!!

女『全裸は寒い!!』

その通りでございます。女の子が風邪をひいてはどうにもなりません。この子が辞めてもらっては困るので、お店の方には女の子の服の脱ぐ場所を考えてあげた方がよろしいかもしれません。
 ちなみに一人すれ違った子がいたのですが、この店の子だとバレバレな雰囲気でした。ちなみに好みでは無かったです。

 それでは評価です。

≪総合評価≫90点
ボウイ氏 ☆☆☆☆
顔 ☆☆☆☆☆
スタイル ☆☆☆☆☆
性格 ☆☆☆☆☆
テク ☆☆☆☆☆
CP ☆☆☆☆

 ちなみに今回の子は入店間もない子であったため、総合的なお店の評価は何とも言えません。来客はコンスタントにあるようなので,まずまずなお店なのかも。今度うちの近所の研◯部長とでも一緒行ってみようかと思います。

 拙い文章ではございますが、また投稿させて頂きます。

はじめまして。私は30代前半の男性です。最近尿管結石(尿路結石)を患ったのでその記録を公開しようと思います。7月22日に発症してから10月19日に排石するまでの3ヶ月間の闘病日記です。同じく尿管結石で不安に思う人の参考になれば幸いです。
とはいえ、尿管結石の病状については人それぞれのようです。私に起こったことが全ての人に当てはまるわけではないのであくまで参考程度に読んで下さい。

尿管結石は基本的に命に関わる病気ではないのですが、病名がわからないと、本当にこのまま死ぬんじゃないだろうかと思わせるような激痛があります。
また、薬を飲んだとしてもすぐに治る疾患ではないので、通常は数ヶ月結石と闘うことになります。

私も痛くて仕事ができなかったり、夜中に痛みで目がさめてしまったりとつらい時期が続き、体内の結石を恨めしく思いました。しかしながら、排石されると妙に感慨深くなります。

画像は私を苦しめた結石です。出たときに便器にぶつかって、割れてしまったので形は変わっています。また、見にくいかもしれませんが、表面がトゲトゲしています。
確かに、こんなのが詰まっていたら痛いだろうなー、と思わせる形状です。憎いヤツですが捨てる気にもならず、保管してあります。

悲劇は前触れもなくやってきた。

その日はいつも通り6時少し前起床。6時過ぎに朝飯を食べてると、右の横っ腹が痛くなってきた。
大体腹が痛い時は原因がわからなくてもしばらくすればおさまることがほとんどなので、しばらくベッドで横になっていた。

しかし、一時間ぐらいたっても痛みはおさまるどころか、なお強くなっていった。そして、吐き気がするようになってトイレで嘔吐した。しばらくぐったりしているとまた吐き気が襲い…。結局3,4回は吐いた。

これはこれまでの人生にない苦しみであり、今までのように時間が経っても治らないだろうと思った。
私は一人暮らしで周囲に知り合いもいない。動くことが出来なくなると、それは死を意味する。万一を考え、携帯電話をしっかりと手元に置いた。そして、もたもたしている暇も無いので次の行動を起こすことにした。

まず、私は盲腸(虫垂炎)を疑った。今まで盲腸になったことはないが、確かアレも横っ腹に激痛が走るらしい。
ネットで調べてみると(痛いけどまだその余裕はある)、盲腸の場合、右腹を押さえて急に離すと激しく痛むそうな。
自分もやってみたが、別に痛みは変わらない。どうやら盲腸ではないようだ。

次に疑わしいのは、酒の飲み過ぎである。私は酒が好きで、焼酎を毎晩飲んでいる。酒の飲み過ぎで腸に穴が開いたのではないかと思った。吐き気もあるし、絶対胃腸系の病気だと思った。
となれば行くのは消化器科だ。ネットで近所の消化器科のある病院を探すが、大抵の病院・医院は9時開院なことがわかった。現在は8時過ぎなのでまだ時間はある。
痛みはさらに激しくなり一時間も待てないと思った。救急車を呼ぼうかと一瞬思ったが、まだ、なんとか動ける。
自転車で10分位行った所に、8時半開業の、地域で一番大きい病院があるので、そこまで根性で行くことにした。

途中、気が狂いそうな痛みに耐え、病院にたどり着いた。初めて行く病院なので、総合受付で自分の症状を説明して、手続きをしてもらった。
なんとか病院にたどり着き、これで死ぬことはないだろうと少し安心したせいか、私は受付の椅子に座ったまま動けなくなった。痛みで小さくうめき声を上げ続けていたせいか、看護師さんが気遣ってくれた。ちょっと失礼しますと、私の右脇腹を押さえて離して、どうかと尋ねてきた。やはり盲腸を疑っているらしい。

いや、盲腸ではないと思います。私としては腸かどこかの内蔵に穴が開いたのではないかと思います。だから消化器科だと思います。と自己診断を述べたが、これが良くなかったかもしれない。素人が病気判断をすべきでないと後から思った(正解は泌尿器科だった)。

病院は混雑していたが、私の様子が尋常ではなかったせいか、急患扱いで順番待ちせずに診療してもらえることになった。そして、私はもう動けなかったので車椅子に乗せられて処置室に運ばれていった…。

2月のある日突然、中学1年13才の息子が急性大動脈解離を発症、8月に川崎幸病院で手術を致しました。その経過をお話致します。
 息子は13才中学生、風邪も引かず病気とは全く無縁、小学生からサッカーチームに所属し、全くの健康優良児でした。それが、2015年の2月のある日の夜、何だか背中がおかしいとの事、私は2階の息子の部屋に行くと、背中が痛いと言います。寝返りした時に背中を捻ったんだろうか?そんな事を考えていると、2分も経たないうちに凄いうめき声を上げ、部屋中をゴロゴロと転げ回っていて、私は何が何だか分からず、でも酷い苦しみようなので、救急車を呼び近くのA病院に搬送しました。到着すると担当医は鎮痛剤を打ち レントゲンと血液検査をしましたが、異常は見当たらないとの事でした。しかし、様子は全く変わらず、酷いうめき声を上げていて、その病院はベッドの空きが無いとの事で、B大学病院へ搬送される事になりました。B大学病院では、私は控え室に案内され、外から先生方のバタバタと動き回る足音がしていました。何だかおかしい。何か有ったのか?と思っていると、若い医師が来て、「落ち着いて聞いて下さい、大動脈に解離の所見が出ました」と言われました。解離と言う言葉に、私は全身の血の気が引いてしまいました。それと言うのも、息子が3才の時に、私の兄が46才で同じ病気(大動脈解離)で亡くなっていたからでした。兄は、朝普通に仕事に行き 仕事の打合せ中に痛みを訴え、救急搬送された病院で急性大動脈解離でその日の昼過ぎに亡くなっていました。その為、急性の大動脈解離という病気が、大変な事だとよく解っていました。

 B大学病院では息子の手術が出来ないとの事で、手術が出来るC病院へ搬送となりましたが、このC病院にたどり着いた時にはもう朝方4時を過ぎていました。そしてC病院での説明では、「これから同じ急性解離の患者が運ばれて来ます。もしその患者が大人の場合、大人の手術を優先するので、お子さんの手術は後になります」との説明でした。子供は後回し?何故?と思う中、すぐに検査が始まり、検査の結果下行大動脈解離;スタンフォードB型と診断され、手術をせず降血圧剤を使用し安静療法をするとの説明でした。それから45日の長い入院生活をする事になりました。
 C病院の説明では、小児の発症はとても珍しく例が無いので手術は難しく リスクも大きいので手術はしたくないとの事でした。しかし、いつか何処かで手術が必要な事も説明され、ただお宅のお子さんのように小児の大動脈手術が出来る病院は、日本ではほとんどない、それくらい難しい手術だと思って下さいとの説明でした。C病院が、小児科の有る受け入れ可能な転院先を当たって下さったのですが、2週間経っても受け入れ先が見つからず、B大学病院に戻される事になりました。2015年3月31日にC病院を退院し、いざB大学病院へ行くと、どの科で受診したら良いのか?紹介状が有るにも関わらず、小児なので小児科か?病名から循環器科か?心臓血管外科か?などと、どの科の医師達も自分の科では無いだろうと、受診科が決まらず、1時間程待たされました。取り敢えず、循環器科に通されたものの、どうしてここに来たんだろうと言う空気が流れていて、次回からは小児科で経過を診て欲しいとの事でした。一体誰が息子を診てくれるのだろう?
いつ大動脈が破裂するかも知れず、安心して生活が出来る状態ではありません。とりあえず自宅退院はしたものの、B大学病院からの指示で、息子は学校へは行っても良いが、運動は一切禁止、重い物を持つ事も、体をひねる事もしないでくれとの事でした。

 13才の中学生が殆んど体を動かさない生活が始まりました。そんな流れの中で、息子と同じ小児の症例は無いか?手術の症例は無いのか?私は必死でインターネットを調べ、その中で山本先生の所属する川崎幸病院のサイトにたどり着きました。手術が難しいと断られた患者達が、山本先生を頼りに全国からやって来ると言う、大動脈専門のセンターのようだ、もしかしたら?、そんな期待を持ち早速主人が予約の電話を入れると、紹介状無しで受けて下さるとの事、救われる思いで受診をしました。2015年5月の土曜日、山本先生の外来受診となりました。少し緊張しながら診察を受けると、山本先生は、「お宅のお子さんの手術が出来るのは、この病院しか無いでしょう」と仰り、「小児だからと言って、手術が出来ない訳では無い、手術は体の大きさで考えましょう」とお話をされ、しばらく経過観察しましょうと言って下いました。やっと手術を含め、息子の病気を引き受けてくれる病院が有った、そんな思いでいっぱいでした。その後、8月に検査をする予定をしていたところ、6月末の朝 また背中が痛いとの訴えに、救急にて川崎幸病院大動脈センターで診察をしましたが、検査に大きな変化は無いとの事でした。しかし、その時に検査をして下さった、大動脈センターの藤川先生と大島先生から、やはり今回のように症状が出るのであれば、早く手術をした方が良いでしょうとのお話が有り、「今迄13才の小児の症例は実績は無いが、しかしこのままにしておく事は出来ない、なのでこれから僕達は色々調べます。もしも手術前に緊急で別の病院に運ばれる事が有れば、当院から医師がドクターカーで迎えに行き お宅のお子さんから連絡が有った場合は、直ぐに手術準備をして病院に到着後20分で手術を始めます」。そうお話して下さいました。手術と言う言葉から一歩も引く様子は無い、何と心強い事だろう。そんな事を自信を持って話せる医師が、心臓血管外科医の中に一体何れくらい居るだろう?普通ならリスクを考え そうは言えないものだろう、この病院の医師達の志の高さに深い感謝の思いと共に、山本先生が仰ったように、息子の手術はこの川崎幸病院大動脈センターでしか出来ないと確信し、心の底から救われた気がしました。そして、術前の不安も解りやすく丁寧に説明して下さった島村先生のお陰で、私達はよく理解し納得する事が出きました。中学生の息子には、大島先生が不安を与えないように優しく説明して下さり、大変な手術で有るけれど、本人も手術への覚悟をする事が出来ました。そしてこの病院は、どの先生が出て来られても、皆さん情報を共有していて、誰でも同じ説明が出来るところが凄いと感心させられました。
 手術当日の朝 山本先生が病室に来て下さり、「大竹君 今日は手術だね」と軽く声を掛けて下さいました。手術時間は8時間くらいでしょうか?との私の問いに「えっ、そんなに掛からないなー、4、5時間かな?」と軽くお話をされ、手術を前に重苦しい気分の私にフワッと安心感を与えてくれた気がしました。午前11時 息子が手術室に入ると、私達は不安な気持ちで控え室に座り、どの病院でも難しいと言われた手術なので簡単では無いだろうと思いながら祈る思いで待っていました。夕方4時半頃、突然山本先生が家族控室に入って来られ、「大竹さん、手術が終わりました。無事に終わりましたよ」と明るい表情で言って下さり、私はその場で全身の力が抜け、しばらく力が入りませんでした。その後、山本先生と一緒に手術をして下さった大島先生からは、「僕は血の一滴も出さないつもりで手術をしました」と言って頂き、この病院の手術に向かう医師達の姿勢に心から感謝致しました。良かった、本当に良かった。半年間運動も出来ず、辛い学校生活をして来た息子も、また大好きなサッカーが出来るかも知れない、本当にありがたい。山本先生に、大動脈センターにお願いして本当に良かった、他の病院では、こうは行かなかっただろう、この病院に来て本当に良かった、心からそう思いました。
 そして、次の日ACUへ行くと さすがに息子の顔は浮腫み、色々な計器に繋がれ、痛みで目も開けられない様子、夜痛み止のブロック注射をして頂いきました。手術2日目、また苦しんで居るのだろう、辛い思いでACUに入ると、ベッドから降り、椅子に座って歯磨きをしている。ブロック注射が効いているにしても、こんなに早く動けるのか?手術3日目、ACUを訪ねると一般病棟に移ったと言うこと、病室に行ってみると歩行器も使わずに一人でトイレに歩いて行ったとのことで、一体どーなっているのか?こんなに大きな手術をしたのに、そんなに早く回復するのだろうか?と不思議でした。以前見たこの病院の体験談に、この病院の術後は楽だと書いて有ったのですが、本当なんだと思いました。手術4日目から痰が絡み、傷口の痛みも有るので痰が上手く出せず、この痰にはなかなか苦戦していました。そして痰が落ち着いた頃には咳が出るようになり、この咳はしばらく続きました。でも、頻繁に病室に顔を出して下さった平井先生から手術中は自分の肺を潰していて、その肺が未だ完全に膨らんでいないが、徐々に膨らんで元に戻り、咳もそれに伴い治まる事ついて色々説明して頂いたので、理由がはっきり分かり、安心しました。
 リハビリは順調に進みました。以前入院したC病院では、500m歩くだけのリハビリで、自宅退院した後は、家では階段を上がって良いのか?悪いのか?何も解らず、自宅2階の部屋には上がらず、2ヶ月程1階のリビングで寝起きをし、自転車には乗らないようにしていました。しかし、この病院のリハビリは違いました。
息子の学校の教室が3階だと言うと、階段を3階分昇り降りし、自転車も20分もこぎ、実際の生活に合ったリハビリをして頂き、これで退院しても不安は無いと思いました。そして、術後15日で退院となりました。
 2月に発症し、半年以上の間、破裂と言う恐怖を感じならが生活して来ましたが、この病院に来て、また以前の暮らしに戻る事が出来ました。山本先生はじめ、関わって下さった先生方には、感謝仕切れない思いです。本当にありがとうございました。そして最後に、兄は大動脈解離の発症時は意識も有り、生きて病院に運ばれたのにも関わらず、病院に到着後に「この病院には年間2人くらいしか解離の患者は運ばれて来ない、手術をしても助かる人は殆んどいないので手術は行わない」と説明されている最中、46才で亡くなりました。
今思えば、その病院では手術をする気が無かったのではないか?いや出来なかったのではないか?多分そのような病院は、多いに違いない、兄もこの大動脈センターに運ばれていたら、きっと助かったに違いない。
そう思うと、無念でなりません。何事でもそうだと思うのですが、出来ると思う人にしか物事は成し得ない。
人の生死に関わる手術を、成功すると信じ切る事はとても難しい事だと思うし、確立した技術や実績が無ければ、信じる事は無理だと思います。しかし、山本先生は、成功を信じ切って手術をして下さっている、そして、ご自身のような若い医師を育てようとして下さっています。是非、このような医師が沢山育ち、兄のように無念にも亡くなる患者がいなくなればと願っています。今回息子に関わって下さった、山本先生をはじめ、大島先生、藤川先生、島村先生、平井先生、本当にありがとうございました。24時間の救急対応という激務の中で、どの先生も正面から患者と向き合える、すばらしい先生たちでした。そして、明るく接して下さった看護師さんやリハビリの先生、コーディネーターの皆さん、本当にお世話になりました。手術から2ヶ月、息子は今 大好きなサッカー部に戻り、仲間と楽しく練習をしています。

葬儀とお金の価値は同等なのかと感じました。


義母の葬儀について、何も考えずにお金を出す事はこういう事なのか?
が正直な感想です。

病院でなくなり、自宅に戻るのは葬儀屋と一緒。
何のためらいもなく、「では葬儀について」と説明され
あれよあれよと地元で有名な大きな葬儀屋に。
他葬儀屋との比較をする余裕も与えずに一社で決定しました。

そもそも義父は見栄っぱりなので「恥ずかしいものはしたくない」と
義母が生前働いていた(公務員)の関係者に連絡し
総勢300名程の大きな式でした。
にも関わらず、「パーティーではないのだから」とお通夜での参列者への食事は断り身内だけの食事会でした。

それは良かったのですが、子どもたちにとっては、母と最後過ごしたい時間を知らない人たちの相手に奔走され、また葬儀後は費用300万円が引き出せないからと、実印もってきて、なんて母の口座からお金をおろすのに東奔西走していました。

思考力や判断力が鈍るあの病院から帰宅後の約2時間で決めさせる葬儀屋も仕事でしょうが、写真に数万円、花に30万円って高すぎです。
お棺や霊柩車、祭壇それぞれにグレードがあり、オプションで数百万です。
人件費、花材費用を考えても、そこまで高くはならないと思います。
(私が画像処理の仕事をしているので、10分で出来る遺影の処理を数万円はありえないです。せいぜい1時間作業3,000円ってとこでしょう)

子どもたちの意見は、「そんなに豪華にする事よりも母は家族と居たいし、私達もそうしたい」
という意思を伝えても、「公務員の母が恥ずかしくない様に」との一言で却下。
どうやら、豪華にしないと恥ずかしいと思ってるのは義父だけの様でした。

家族で寄り添う事もできず、中身の無い葬儀にたった一日で数百万使うあの団塊の世代を狙ったビジネスにうんざりしました。
私の住んでる最寄り駅に最近葬儀屋が立て続けに4件できたのもうなずけますね?


ロードバイクは数万円〜数十万円まで同じメーカーの中でも価格に差があります。何の違いなの? と思いますが、ざっくり分けると「フレーム」、「コンポーネント」、「ホイール」のグレードで価格が決まります。特にフレームはロードバイクの価格の違いもでやすく、最も中心的で重要な部分となります。また、1度買ってしまうと買い替えが出来ない部分となってきますので特に慎重に選んでくださいね。


~15万円位のロードバイク

この価格帯のロードバイクは入門機として良心的な価格設定が魅力的です。フレーム素材はスチール(クロモリ)、アルミが多く、軽量、丈夫ではじめの1台にもぴったり。パーツのグレードや重さはやはり上位車種と比べてしまうと少し劣りますが、ロードバイクの特徴でもあるスピード感や軽快な乗り心地を気軽に味わうには十分といっていいでしょう。ひとまずロードバイクを始めてみたいなと思っている方や街乗り、通勤などで気軽に使いたいという方におすすめです。


15~20万円位のロードバイク

この価格帯のロードバイクは、街乗りや通勤以外にもレースやイベントへの出場も視野に入れて考えている方など本格的にロードバイクを始めたい! 且つ最初はお手頃価格が嬉しいという方にぴったり。フレーム素材は軽量アルミ、カーボンのエントリーモデルでパーツはミドルグレードという組み合わせを使用したものが多いです。これくらいになってくると、アップダウンのある道も問題なく対応できるでしょう。


20万~40万円位のロードバイク

この価格帯のロードバイクは、フレームにカーボンを使用したものが一般的です。カーボンは成形の自由度も高いので、軽くて振動吸収性が優れていて、乗り心地もバツグンな上に強さも兼ね備えています。パーツのグレードによって価格帯にも幅広い差が出てきます。長距離乗りたい方や、身体に優しいので女性やご年配の方にもおすすめです。


40万円以上のロードバイク

振動吸収性・剛性・軽量性の全てにおいて最高レベルのフレーム。より少ない力でよりスピードが出るため、トップスピードや巡航スピードが上がるだけでなく、長時間のライドが楽で快適になります。レースやヒルクライムイベントはもちろん、ロングライドメインのホビーライダーの方にも重宝されています。


スチール(クロモリ)素材

少し前までは低価格帯フレームのメインはクロモリ素材が多かったのですが、今ではカーボンが進化し、普及しているので、低価格帯フレームには大量生産で価格を抑えることのできるアルミフレームが主流となってきています。ですがクロモリならではの特徴としては、細さを表現する事に長けており、クラシックなデザインを表現するにはクロモリが一番最適です。また、伝統ある文化による昔ながらの乗り心地もあり、今も根強い人気がある素材です。デザイン性を重視するならクロモリという選択肢もあります。


アルミ素材

大量生産可能で価格を抑えつつ軽量なので、スピード重視で選ばれることも多いロードバイクの素材としてはぴったりなのがアルミ素材です。また、カーボン素材よりも割れて壊れるという可能性が少ないので、強さも兼ね備えています。街乗りや通勤メインでガンガン使いたい、ロードバイク初心者の方には人気でおすすめの素材です。


カーボン素材

高級なロードバイクの主流素材であるカーボンの特徴は、軽さと乗り心地のよさです。上記で紹介した他の素材と比べると価格は上がりますが、振動吸収性はピカイチ! 整備されていないガタガタの路面での振動を吸収してくれるので乗り心地も良く、体への負担の軽減へと繋がります。ですが、アルミやクロモリと比べると割れやすくデリケートな面もあるので、ガンガン使いたい方よりは長距離乗りたい方に特におすすめしたい素材です。また将来的には本格的な軽量化をしたいと思っている方は最初からカーボン素材でもいいでしょう。


コンポネートって何?

ロードバイクはフレームを中心として、ブレーキ、チェーンなどの聞いた事あるパーツから、BB、スプロケット、クランクなどの聞き慣れないパーツまでたくさんの機能パーツで構成されています。そんなパーツの総称が「コンポネート」です。昔はバラバラのブランドのパーツを組み合わせて使っていましたが、今では同じブランドの同じグレードを使う事により、最適なパフォーマンスを発揮出来るため、統一させるのが主流となっています。

現在は「シマノ」と「カンパニョーロ」というメーカーの物が主に使用されていますが、日本で売られている完成車のコンポネートはシマノがメインになりつつあります。フレームの違いと似ていますが、高いグレードほど、軽量で強度もあり、尚且つ精度が高く作られています。

【主なシマノ製コンポネート(グレードが高い順)】
「デュラエース(11速)」
「アルテグラ(6800は11速/6770は10速)」
「105(10速)」
「ティアグラ(10速)」
「ソラ(9速)」

【主なカンパニョーロ製コンポネート(グレードが高い順)】
「RECORD(11速)」
「CHORUS(11速)」
「CENTAUR(11速)」
「VELOCE(10速)」
「XENON(9速)」

まとめ

いかがでしたか。安いからダメ、とりあえず高いやつはいいやつだろう。という考えは捨てちゃいましょう! まずは何を重視するか、どんな用途で使用するか… と考えて行くと、たくさんの種類の中からでも絞り込んでいけるかと思います。ぜひこちら記事を参考にぴったりな1台が見つかる事を願っています☆

私は38歳の主婦です。

 あれは昨年の7月の出来事でした。

主人のお義父さん(当時60歳)は大工の仕事をしていて脚をケガし自宅で養生している時の事でした。

主人は(40歳)サラリーマンでお義父さんの事なんか私にまかせっきりで毎晩、お酒を飲んで遅くに帰ってくる毎日でした。

お義父さんは60歳にしては元気な方で、脚が痛いと言うわりにはよくパチンコに出掛けていました。

 そんなお義父さんに異変を感じたのは結婚して間もない頃からでした。

私の洗濯物をコソコソあさったり、干してあった下着が数枚無くなっていたこともありました。

その時は下着泥棒かな?て思っていましたが、今思うとお義父さんの仕業だと思います。

そして、とうとうお義父さんは私に手を…。

 問題のあったあの日、お義父さんは昼間パチンコ屋から帰ってきました。

私は洗濯物を取込んで部屋で洗濯物をたたんでいると、背後に人気を感じ振り向きました。

なんと、鼻息を荒くしたお義父さんが既に下半身裸のまま立ち尽くしていました。

私は突然のことで頭の中が真っ白になり動けませんでした。

 お義父さんはおどおどする私をみるなり、急に私に抱きついてきました。

お義父さんは私の背後からタンクトップとブラを捲り上げ(少し自慢)の大きめのバスト(92)を汗ばんだ手で激しく揉み上げてきました。

同時に耳たぶや首筋をお口でなめ回してきました。

私は必死で抵抗しながら「お義父さん、止めてください!主人に言いますよ!お願い止めてー!」と言いました。

しかしお義父さんは聞く耳も持たず、がむしゃらにオッパイを揉み乳首をつまんで引っ張ったりしてきました。

 フッと気が付くと私の背中にゴツゴツと何かが当たりました。

お義父さんはそのゴツゴツした物を腰を動かしながら私に押しつけてきました。

今度は、私を床に押し倒し仰向けにしオッパイに吸い付いてきました。

両手で強く引き寄せ、乳首を舌先でチロチロと舐めたかと思うと少し歯を立て強く吸い付いてきました。

私はもう抵抗する気力も有りませんでした。

 お義父さんは私のオッパイを十分堪能すると、今度はスカートを素早く脱がせ私はパンティー一枚の格好にされました。

お義父さんはわたしの膝を両手で強く広げ、しばらく眺めていたみたいです。

「けいこさん、こんなに小さいパンティー履きよって!毛が納まりきらんて、はみ出しちょる!」

そう言うとパンティー越しにクリトリスの部分から肛門の方までを太い指で上下に何度もなぞり始めました。

私もフト気が付くとお義父さんの指の動きに合わせ腰を上下に動かしていました。

愛液が溢れ出てパンティーがお○こに張り付いているのが分かりました。(凄く恥ずかしかったです)

お義父さんはなかなかパンティーを脱がそうとせず、しつこく指で責め続けてきました。

 そして、やっとお義父さんは私を四つんばいにすると、パンティーをそっと膝までズリ下げてきました。

お義父さんは剥き出しになった私のお○こを眺め言いました。

「たけしはけいこさんのここに何時も出し入れしとんか!ビラビラも大きくクリトリスもコチコチじゃ!しかし、子供が出来ないのはなぜじゃ!」

そう言うと中指をお○こにおし込みながら奥でグリグリとかき回し、同時に肛門を舌先で舐めてきました。

私はそれまでのお義父さんのしつこい指責めでもう完全に変になっていました。

思わず「あぁ、あぁぁぁ~」と声が出てしまいました。

 それに気づいたお義父さんは「けいこさん、イヤじゃなかったんかい!うん?そんな声出しおって!たけしに見られたらどうすんだ!」

そう言うと次はお義父さんが床に仰向けに寝ころび、四つんばいの私の下になりました。

俗に言う69の格好です。

 お義父さんは私のお尻を両手でさすりながら、目の前のお○こにジュルジュル音を立てながら激しく舐めてきました。

そして私の目の前には、お義父さんの大きくカチカチになったペニスが突き出されていました。

私は自然とお義父さんのペニスを握り上下にシコシコと動かし、大きな亀頭を口に含み唇をキュと締め根本から先まで何度も吸い上げました。

私のフェラにお義父さんのペニスはさらに大きくなり、主人の物より遙かに大きかったです。

 しばらくお互いを舐め合うと、お義父さんは私に上になるように言いました。

私は自分の唾液でテカテカ光るお義父さんのペニスにまたがるとグゥと腰を沈めました。

「アフ~ウウ~」

一瞬全身から力が抜けました。

お義父さんは下からズンズンとペニスを突き刺してきます。

私も夢中でお尻を上下左右に激しく振り、時々お尻を円を描くようにグルッと回しお義父さんのペニスを味わうようにゆっくり動かしました。

(主人ならもう既に果てていると思います…)

 お義父さんは次にバックを強要してきました。

私は床にグッタリしお尻だけを高々と突き出しました。

お義父さんは私のお尻を両手で引き寄せ、お○こにペニスを押し当て一気に根本まで挿入しました。

お義父さんの亀頭が私の子宮にゴツゴツと当たるのが分かりました。

私はもう失神寸前でした。

とともに二人とも汗だくでした。

そしてフィニッシュは正常位でした。

 お義父さんは腰を振りながら私のオッパイに吸い付き、たまに両方の乳首を摘み引っ張られるとイキそうになりました。

男性は主人を入れて3人しか知らない私にして初めての快感でした。

そして次第にお義父さんの腰の動きが早くなり、私も何を言っているのか分からないくらいでした。

お義父さんは「けいこさん中出しでもええじゃろ!なぁ、なぁ」と言ったので、私は「お父さんイヤ!それはイヤ!」と反射的にペニスを抜こうとしましたが、お義父さんは強引に私のウエスト部分を引き寄せ、さらに激しく腰を動かしたかと思うと「オッオッオ~ぅぅぅ~」と言い、最後の一滴まで私の中で放出しました。

しばらくそのままでいました。

お義父さんが放出を終えたペニスを抜くと、私のお○こからドクドクッと大量の精子が逆流し、肛門を伝い床にこぼれ落ちていました。

 その後、二人は何もなかったように振るまっていました。

勿論、主人には絶対に言えませんでした。

昨年の12月にお義父さんは交通事故で他界しました。

私は今、大きな腹を抱えてテーブルに向かっています。

産むまでに是非このことだけは言いたかった。

 後一ヶ月で生まれます。

主人は結婚14年で初めて子供が出来ると喜んでいます。

私も喜んでいますが、主人の子でないのが…苦痛です。

しかし、主人の血も混ざっているので良いと思っています。

CMWC2009 Champion ジュリ インタビュー

CMWC2009見事チャンピョンになったジュリにインタビューをしてみた。

まずは今回のレースについてTKBMAのメンバーとしてもスタッフ側として動いていたジュリ、スケジュールはハードでレース前日だってほとんど寝れなかったはず。そんな中どう自分をコントロールしてレースに望んだのか?

『初めての世界戦がシドニー、それからダブリン、トロント、今回の東京が自分にとって4回目の世界戦になるんだけど、やはりこれまでの経験が大きかった。ペース配分や補給のことも恐らく初めて参加した人ならそこまで考えないだろうけど、自分の限界を知っているからこそ考えたんだよね。意識したのはスピードのペースを落とさない事。全力で走ると思考力が落ちてケアレスミスがでてくるから。何よりもミスなくいかに効率よく回るかにすべてを集中したよ。いかに冷静に走り続けられるかだね。決勝戦は持久戦、後半になればなるほど辛く、ミスも多くなるから。

確かに連日のハードスケジュール、睡眠不足だったし風邪気味でもあった。結構辛かったね。スタート前の緊張もなかったよ、今までの経験もあるがこれは日本でやるという事、ホームグラウンドでやるという事が大きかったと思う。

予選ももちろんノーミスを意識して16位で突破。トロントでいい成績を残したタオ君の存在は結構意識したね。

決勝レース開始後は自分が意識した通りに冷静に走り続けた。伝票は15枚。15枚。20枚。二時間を超えた辺りで限界を感じ始めたが今までの世界戦を思い返しながら自分に「あきらめるな」と言い聞かせていたよ。でも正直両足はつっちゃったね。ゴールの瞬間も自分の納得のいく走りはできたな、とは感じたよ。』

アワードで自分の名前が呼ばれた時、そして世界戦後の気持ちの変化や、周りの変化はあったのだろうか?

『自分の名前が呼ばれたときは正直びっくりしたね。え?俺?俺でいいの?という感じだった。ステージの上ではもう頭が真っ白だったよ。何が何だか。。嬉しかったのは嬉しかったけどね。世界戦が終わった後も正直実感はわかなかった、今年に入ってようやく沸いてきたのかもしれない。いろんな人と接する中でみんなが賞賛してくれるんだよね。その積み重ねが実感につながってきたかもね。優勝した事にそこまでおごり高ぶりたくはない、普段仕事でやってきた事をやっただけ、もちろん普段の仕事に対するモチベーションは人よりも高いつもりだけどね。今でも自分が一番だなんていう気持ちはない。ああいうレースには参加しない人もいるし自分より早い人はいくらでもいるからね。。』

そもそも世界戦に参加してみようというキッカケは何だったのか?

『T-servのマスタークラスというものが世界でどれくらい通用するのかを試してみたかった。世界中にはたくさんのメッセンジャーがいて上には上がいるからね。初めての世界戦シドニーに関しては正直あまり覚えていないよ(汗)レースそのものを分かっていなかったよ。その後京都ロコや色んなレースに出てつかんできた感じ。そしてやっぱりシノさんの存在は大きい。いろんな世界戦を共にしてレースへの姿勢、望み方をみてきたからね。今回の優勝でシノさんにも認められたのは嬉しいよ。いろんな世界戦を経験した中、2年前にTKBMAに入って自分も東京への世界戦に向けて役に立ちたいと思ったんだよね。楽しませてくれた世界中のメッセンジャーに少しでも恩返しがしたかったんだ。』


メッセンジャー、そしてこれからについて聞いてみた。

『メッセンジャーはやっぱり一生できる仕事ではないよね。若いうちしかできない。でもそれでいいと思うんだ。自分は自転車の事を何も知らずにスタートしたメッセンジャー。そんな自分でもチャンピォンになれたという事は一つの誇りでもあるよ。今年の世界戦はグアテマラ、行ってみたいね。自分がチャンピォンになった以上少しでも盛り上がればいいなぁと思うよ。
今後の夢っていう程具体的なものはないけど。人はどうしても周りと比べてしまうんだけど振り返ってみて自分のスタイルを貫き通して良かったと思える自分でありつづけたい。自分のやってきた事に誇りを持ち続けたいね。』

創立100周年記念 加藤信明社長インタビュー

大正14年(1915年)に台湾バナナの加工卸問屋として創業して以来、100年。
横浜で果物・野菜の老舗として知られる「水信」の3代目社長、加藤信明氏に
これまでの歩みと今後の展望について伺いました。

常に時代と共に歩んだ激動の100年を振り返る。

果物・野菜のトップブランド「水信」として守り続けてきた品質とサービス

-100周年を迎えられた今のお気持ちをおきかせください。


この100年の間に、果物・野菜を含む食品の流通業界は大いに変化しました。創業当時はバナナの加工卸問屋としてスタートした家業も、現在ではバナナ以外の果物・野菜の仲卸から小売・飲食まで幅広い業種で事業を展開しております。しかし、どれほど時代が変化しても、決して変わらないものがあります。それは、「品質に対するプライドとお客様へのサービス」です。「水信なら間違いない」と足を運んでくださるお客様の信頼に今後もお応えしてまいりたいと考えております。

また、鮮度やおいしさはもちろんのこと、東日本大震災後の原発事故をきっかけにしたお客様の食の安全への関心の高まりとともに、トレーサビリティーにもこだわった、安心で安全な品をご提供しています。

今後は各店舗スタッフとして野菜・果物のソムリエ資格者を置き、生食のできる野菜に特化した品揃えや、地方の希少品種の魅力をお伝えしたり、地元神奈川の産物を深く掘り起こしたご紹介を行なったりするなど、他の店舗にない水信ならではの品揃えとサービスで、魅力ある店舗づくりを進めていきたいと考えています。

将来にわたり発展・成長する企業を目指し、人づくり、仕組みづくりに力をいれていきたい

-3代目社長として、加藤信明社長が大切にしていることを教えてください。


私が横浜水信の代表取締役に就いた2001年頃は、テナント店舗を閉店したり、仲卸業が廃止になったりと、世の中の不景気ともに会社も縮小余儀なくされていた時期で、店舗の閉鎖の仕事は本当に大変なものでした。

店舗や部門がなくなれば、そこにいる社員の仕事もなくなります。しかし、水信では仲卸部にいた社員を小売りや飲食部門に配置するなど、流動的な人事を行うことで、そのまま働き続けてもらっています。 一つの部門で専門的なスキルを磨くことも大切ですが、他部門で得たスキルを新しい部門で生かす事こそ、会社の大きな力になっていると感じています。

水信が100年という永きにわたって商売を続けてこられた陰には、社員の大きな力がありました。これからの100年を刻むためにも、一番の肝になるのは「人づくり」です。
特に若い社員はもっと外に出てお客様のニーズを体感し、社内にフィードバックして欲しいですし、そのためにも、社員が自由に働きやすい会社の仕組みづくりを進めていくつもりです。


祖父の代から培ってきた誠実さと信用。それが「水信」の原点です

-加藤社長の「信明」というお名前は、初代社長からいただいたものだそうですね。


はい。私の「信明」という名前は、「水信」の創業者である祖父の名前をもらったもの。商人として尊敬する祖父にあやかってつけてもらった大切な名前です。

父・明は家業を継いですぐに祖父の信明を亡くし、商売に関して手ほどきをうけることはありませんでした。横浜大空襲で全てが灰になった後、地方の得意先を回っていく先々で、信用と誠実を大切にしていた祖父の「商人としての大きさ」を知り、積み上げられてきた徳に後押しされたからこそ順調に仕事ができたのだと言います。

商売で大切なのは、誠実さと信用。それを父は「因果応報」という言葉で、戒めとして教えてくれました。「人に後ろ指を指されるような商売をすれば、いつか必ず報いがある」。たとえ自分にかえって来なくても、自分の子、孫の代にツケをまわしてしまうのだと。

父は新規出店などの際はいつも同業者との競合を避けていました。それは自分のポリシーを曲げない父の誠実さであったと思います。


これからの100年も「水信」がこだわり続けている品質やサービス力を生かし、より積極的に社会に貢献してまいります

-今後の100年にむけてお考えになっていることを教えてください。


水信が100周年というメモリアルを迎えることができたのも、祖父と父、そして長きに亘って水信を支えてきた前社長、関谷氏の積み上げてきたもの、さらにお取引先様やお客様、社員をはじめ会社に関わって下さっているすべての方のご支援があったからこそと思うと、感謝に堪えません。

そしてこれからの水信の100年をつないでいくために、代表という任をいただいた私が、これまでの信用と誠実をさらに厚く積み上げるとともに、小売の経験を生かして業界に貢献すべく、新たなチャレンジをして行くことを固く決意しています。

今後とも、皆様の変わらぬご支援とご愛顧をお願い申し上げます。

 ロックが誕生してから半世紀。1960年代から若者を熱狂させた「ロックの神々」は、反戦、Love&Peaceなど様々な社会現象を巻き起こした。時代とともに生まれては消え、変遷していくロック。その魅力とは何なのか。DJ・ブロードキャスターのピーター・バラカン氏に聞いた。

──ロックはどのように生まれたのでしょうか?

 音楽的ルーツをたどれば、1950年代のロカビリーの時点である程度、形ができあがっていますよね。その中で圧倒的に人気があったのはやっぱりエルヴィス・プレスリーです。アメリカで公民権運動がピークを迎える前の時代に、黒人のリズム&ブルーズを白人の解釈で聴かせるロカビリーは、保守的な社会に一石を投じました。ロックがまだロカビリーだった時代から、根底には反骨精神があったと言えるでしょう。

──ロックという言葉が使われるようになったのは、いつ頃からですか?

 60年代の中頃ですね。でも、ある日いきなり、「これがロックだ」って決まったわけではありません。僕が14、15歳だった頃のロンドンで、気が付いたらザ・フーのような危険な香りのするバンドが、ロックと呼ばれるようになっていたと記憶しています。ザ・フーは一触即発的な雰囲気を漂わせていて、それ以前のポピュラー・ミュージックとは明らかに異質でした。個人的にはそんなザ・フーを特に、「ロックらしい」と感じていましたね。

──ロックの特徴とは?

 あくまで僕はDJ・ブロードキャスターで音楽評論家じゃないから全体的な話はできないけれど、強いて言えば、コマーシャルな成功だけを目的としない、好きなことをやっている音楽ってところでしょうか。サウンドとしては、ジェイムズ・ブラウンなどのリズム&ブルーズやチャック・ベリーなどのロックンロール、エルヴィス・プレスリーに代表されるロカビリーを発展させたものですね。

──62年にデビューしたザ・ビートルズは当初、ロックとは呼ばれていなかったのですか?

 60年代の前半には、まだロックという言葉自体がなかったと思います。そもそも65年くらいまでのイギリスでは、ほとんどのポピュラー・ミュージックは芸能界の延長上にありました。ザ・ビートルズも初期はアイドルのような売り出し方だったんです。63年に不良っぽいイメージでデビューしたザ・ローリング・ストーンズだって当時は意外にまともな青年たちでしたよ。

──60年代の中頃を過ぎてからは、ザ・ビートルズもザ・ローリング・ストーンズもロックと呼ばれるようになったわけですよね?

 そうですね。ロックと呼ばれないのは、ハーマンズ・ハーミッツなどの商業的なポピュラー・ミュージックだけになりました。みんなが自然に、そのへんの線引きをするような時代に入っていったんです。

ギネスワールドレコーズは、京丹後市から木村次郎右衛門氏の訃報を受けました。木村氏のご冥福をお祈り申し上げ、ご遺族に対し、心よりお悔やみ申し上げます。木村氏は、ギネス世界記録により、『史上最長寿の男性』、『(存命中の)最長寿』、『(存命中の)最長寿の男性』として認定されておりました。

1897年4月19日生まれの木村次郎右衛門氏は、116歳以上を生きた初めての男性であり、116歳54日で故人となられた現在も、史上最長寿の男性としての世界記録をお持ちです。木村氏は、2012年12月28日に115歳253日で全記録保持者の故クリスチャン・モーテンセン氏(デンマーク/アメリカ 1882年-1998年)の記録を破り、「史上最長寿の男性」となられました。

2013年4月19日に116歳の誕生日を祝われた木村氏は、故ウォルター・ブルーニング氏(アメリカ/1896年-2011年)の後を引き継いで、2011年4月14日より113歳360日で『存命中の最長寿の男性』になられました。『存命中の最長寿』の記録は、故ディーナ・マンフレディーニ(アメリカ/1897年-2012年)氏より2012年12月17日に引き継がれたものでした。また、『存命中の最長寿』記録は、『存命中の女性最長寿』の大阪に住む大川ミサヲさん(115歳99日)が引き継がれます。

書籍『ギネス世界記録』の編集長クレイグ・グレンディは以下のコメントを寄せています。「木村次郎右衛門氏は卓越された人でした。木村氏に面会し、木村氏をご紹介した本をお見せすることができたのは、非常に名誉なことでした。116歳に到達したことが証明された唯一の男性として、世界の歴史に名を残されることと思います。」

このたび、竹弘盛三さん(87歳)の突然の悲報に接し、故人のご功績を偲び謹んで哀悼の意を表します。
故人、竹弘さまは、上関町内でも原発建設予定地の集落で推進派の拠点地域である上関町四代地区において「上関原発計画」が浮上する以前から電力会社や原発推進派のどぎつい誘致工作にもまけずに原発反対を貫きとうしてこられました。
原発建設予定地内に位置する四代八幡宮の鎮守の森や神社地を、中国電力に売却しなければ埋め立て工事着工することができないために推進派は、土地は売らないとする故、林春彦四代宮司さんを「虚偽の退職願」など不法な手法で解任して、推進派の宮司をわざわざ約100キロ離れた山口市より招き入れて中国電力に土地を売却した。
故人、竹弘さんは四代住民の日々の営みを支えてきた神社地は、地区民の共有地として住民の全員の同意がなければならないとして「入会権」の確認を求めた訴訟を起こし25年12月広島高裁での差し戻し控訴審で、国策を配慮し「棄却」との不当判決となったが、最高裁に上告しいて「私には、神様が付いている。必ず正義が勝」と話されていましたが判決が出ることなく裁判は、原告4人全員の死亡により終結することになり無念としか言いようがありません。
亡き竹弘盛三様と共に四代地区で原発反対を貫いてこられた故人となられた十数名の皆さまの想い「戦争で夫を奪われ苦難を強いられたが、あの戦後の困難な時代を生きることができたのも田畑や海があったからだ」と故人、間登志子(享年78歳)さんの言葉を思い浮かべます。
故、竹弘盛三さんをはじめ「きれいな海や土地」を守ろうとした皆様の生前の御労苦に対して心より敬意を表すと同時に、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
先人となられました皆様の志をしっかりし受けとめて今後も上関原発中止となる日まで頑張る決意です。
後日、故人竹弘さまを支えてこられました。日本で入会権の専門家として全国各地を回りご活躍していただいた中尾英俊弁護士が昨年12月21日、90歳でお亡くなりになったとの連絡が入りました。
ご二人のご冥福を心よりお祈りいたします。

病気と症状について


98年3月初め、急に横腹に激痛を感じ、意識レベルが低下。救急搬送され所見では胃に原因ありと診断されるが、本人は過去の手術にて胃の3分の2を摘出していたため、他の原因を探す。肝臓がん発見時にはステージ?まで進行しており、当時治療法のなかったC型肝炎が原因の肝臓がんであったため、手の施しようがないと告知された。

なぜ開腹手術を選んだか


C型肝炎とがんの脳転移で発狂して暴れだし、噛み付きなどの二次三次感染を恐れた医師看護師が病室から逃げたため。

治療法を決めるために参考にした情報


ドルミカム投与で眠らせるしか安らかに亡くなる方法が無かった。

開腹手術の効果について


痛みをわずかに緩和できただけ。暴れることを抑えるために投与しただけであり、治療ではない。98年3月25日に死亡。

他に検討した治療法


全身化学療法,放射線療法

治療期間


入院期間:10日未満
治療期間:10日未満

治療に関する費用


入院:10万円程度

副作用について


投与してすぐ意識が混濁し、亡くなるまで目覚めることが無かった。

治療を受けた病院について


開腹手術・ドルミカム投与:徳島県立三好病院

肝臓がんを患っている方へのアドバイス


C型肝炎(薬害による感染)をお持ちの方、または現在C型肝炎のキャリアの方は、医療が追い付き治る時代になったので、ぜひ積極的に治療してください。祖父は薬害でC型肝炎に罹患し、長い間患い、家族に迷惑をかけないために肝臓がんのステージ5まで隠し通し、我慢をして必死に生きました。祖父の様な亡くなり方をされたC型肝炎キャリアの高齢者は多数いらっしゃるはずです。現在は治すことのできる病気ですから、まずは肝炎から積極的に治療されることを勧めます。肝臓がんも、ステージが早ければ局所放射線治療や、部分摘出など、先進医療の発達で、寛解する病気になっています。諦めず前向きに病気と闘ってください。

俺の彼女は今から5年前にヤクザにレイプされたと言ってた。


当時はクラブに勤めていたのだが、その店にヤクザが飲みに来たらしい。


格好は普通でヤクザには見えなかったらしいが、彼女の事を初回で気に入ったらしく、指名してくれたそうだ。


3回目の指名で3万くらい使ってくれてたので、ヤクザのアフターに付き合う事にした。


高級クラブとかじゃないから、不況の時代に3万円を使ってくれる客は有難い存在だったみたい。


断るのも悪いので、軽く居酒屋くらいならって事で店が終わってから大手の居酒屋に行った。


居酒屋で2時間くらい飲んで、3時30分を回ったところで眠くなり、帰ろうって事になったらしいのだが、ヤクザが車で送ってくれると言うので遠慮なく車で近くまで送ってもらう事になった。


車に乗って数分くらいで睡魔に襲われ、そのまま眠ってしまったそうだ。


どうやらトイレに行ってる間に精神安定剤か睡眠導入剤を入れられたらしい。




目が覚めた時はベッドの上で既に全裸にされていた。


薬の影響で頭と体がボーとしていたので、何が起こったのか事態を把握するのに少し時間が掛かったらしい。


オッパイを吸われて乳首が感じた時にやっと犯されてるのだと気付いたが、頭も体も思うように動かず、抵抗はしたけど殆ど抵抗にはなってなかったそうだ。


体は動かないが、全身を隈なく舐められて感じてしまい、余計にヤクザが興奮していた。


口で


「いやー」


と弱々しく言ったが聞き入れてくれるはずもない。


ヤクザに


「本当は気持ちが良いんだろ?」


と言われてそのまま挿入されてしまった。


挿入されてねっちこいピストンを繰り返された彼女は感じて声を出してしまっていた。


ヤクザは


「犯されてるのに感じるなんて、あんた変態じゃないのか?」


と言われたと言っていた。


そのヤクザは言葉責めが好きだったみたいだ。


30分くらいのピストンが続き、ヤクザは果てた。


彼女は未だ薬の効果が切れていないのでグッタリしてた。


30分くらい眠ってしまったらしいが、目が覚めると再び彼女の上に乗り激しいピストンを再開した。


もう抵抗する気力がなかったのと、既に1度犯られているので、そのままセックスに流されて感じまくったそうだ。


更に30分くらいして2回目が終わり休憩。


彼女はダルい体を起こし、男の背中を見て初めて刺青に気が付いたそうだ。


怖くて体が固まってしまったそうだ。


それから再び押し倒され、3回目のセックスに突入。


怖いのと、既に2回犯られてるのとで全く抵抗はしなかったそうだ。


3回目になって彼女の体が少し動く様になると、ヤクザが彼女を起こして騎乗位にされ、下からガンガン突かれまくった。


一切の抵抗をしない彼女はされるがままに感じまくり。


ヤクザが腰の動きを止めたので、自ら腰を使った。


持続力の在るヤクザはかなりの長い時間ピストンを繰り返し、正常位へ移行。


そして言葉責めを始めた。


「あんた、相当の好き者だな。

もうあんたは俺の女だぜ!!分かったな!!?」


と言って3回目のフィニッシュは中出しだったそうだ。


彼女は当時は付き合ってる彼氏が居たのだが、彼氏には相談出来ず、ヤクザが怖いので言いなり状態で、店が終わるとすぐヤクザの住むマンションに呼び出されていたそうだ。


彼氏はサラリーマンで、週に2回くらいしかセックスしていなかったらしく、平日は殆どヤクザのマンション通いだったそうだ。


最初は彼氏への罪悪感があったが、彼氏よりもヤクザとのセックスの方が多いせいか、段々と罪悪感も薄れてしまい、情が移ってしまった。


そりゃ彼氏が週2でヤクザが週5では敵わないだろう。


ヤクザは仕事があってないようなものだからね。


時間の自由が利くからリーマンとでは勝負にならないのだ。


最初に犯られた時に連れ込まれたホテルに昼過ぎまで居た。


シャワーを一緒に浴びながら自分の女宣言をされた。


ヤクザ「もう、お前は俺の女だぜ!!」


彼女「そんな・・・私には付き合ってる彼が居るんです。

だから貴方とは付き合えません!」


ヤクザ「そんな事は関係ない!お前は俺の物だ!だから男とは別れろ!」

彼女「嫌です!そんな事出来る訳ないでしょ」


ヤクザ「取りあえず今夜店が終わったら俺の部屋に来いよ!!良いな!?来なかったら彼氏にバラすぞ!」


彼女「そんな!お願いだから、それだけは止めて!」


とこんな感じのやり取りがあったらしいです。


台詞は彼女の話からの推測で、こんな感じかって聞いてみたのです。


そんなこんなで、彼氏にバラされたくない彼女は、店が終わった後で彼氏と深夜に会う約束をキャンセルしてヤクザのマンションに行き、その時は5回くらいセックスされたらしい。


そのヤクザにとって彼女は余程好みだったようだ。


(あくまで外見が)


俺から見れば少なくともブスではないし、決して普通でもない。


むしろ普通よりは可愛いし綺麗だとは思うが、特別綺麗って感じでもない。


これを言ったらマズいから言えないけどね。


人からは良い女だと言われるが、他人の女は良く見えたりするものだ。


ヤクザに抱かれながら彼氏の事を思い出し、悪いと思いながらも体は正直だ。


しかも、彼氏よりも少しだがチンポも長く持続力があり、回数も多い。


正直に彼氏よりもSEXは良いのが彼女の本音だった。


それが余計に彼女を感じさせ、彼氏への罪悪感を増幅させた。


しつこいくらいの愛撫とピストンで朝までヤリまくりで、彼女はクタクタになった。


3回目のSEXが終わった後で一緒に風呂に入り、体を洗わされた。


(一緒に入らせられたと言う表現の方が適切か?)


その時に、ヤクザは彼女を彼氏とSEXさせない為、下の毛を剃られてしまった。


止めてくれと言ったが、剃らせないと彼氏にバラすと言われ、仕方なく剃らせた。


毛を剃られてしまった彼女のアソコはツルッツルになった。


これで毛が生え揃うまで彼氏とはSEX出来なくなってしまった。


彼女のツルツルのアソコに興奮したヤクザは風呂で挿入開始。


そのまま中に出されてしまった。


3回目だからか、運が良かったからか、幸い妊娠はしなかった。


シャワーでヤクザが彼女のアソコを手で開いて洗い流すと、精子がドロドロと出てきてしまい、これは夢ではなく現実なのだと認識した。


それからベッドへ戻って5回目のSEXを開始。


このままではヤバいと思った彼女だが、良い手立ては思いつかなかった。


更にヤクザは彼女の全身を強く吸い始め、全身をキスマークだらけにされてしまった。


これで数日間は彼氏とはセックスできない。


アソコの毛も剃られてるからどの道出来ないが・・・その日の夜は金曜日でいつもなら彼氏とSEXする日だ。


キスマークだらけでアソコの毛を剃られてしまった彼女は、次の日の土曜日も彼氏と会えなかった。


当然彼氏からは


「何で土曜日も会えないのか?」


と問い正されたが、


「お客さんとのアフターがあるから」


と言って誤魔化したそうだ。


勿論、ヤクザとの情事が原因だ。


3日連続でヤクザに抱かれまくって、段々彼女の体はヤクザに馴染んできてしまっていた。


本気でヤバいと思ったがどうする事も出来ない。


日曜日は店が休みで、彼氏と会う事になったが、アソコがツルツルで全身キスマークだらけの状態を見せるわけにもいかず、彼女は生理が酷いからと言う理由でSEXを断った。


いつもなら生理でも平気でSEXしてたので、彼氏は不信に思っていたらしい。


その時点で、彼女と彼氏は1週間SEXしていなかったのだ。


更に毛が剃られてしまっているので、、生え揃うまでに最低でも20~30日は掛かる。


それまで彼氏とSEXできないし、どうやって断るかを考えが良案は浮かばない。


俺の経験でも、余りにもSEXしない期間が続くと駄目になる可能性が高い。


結局、彼女は彼氏には忙しくて同伴ノルマに指名客とのアフターで忙しくて疲れて体が持たないという理由で彼氏とのセックスを断った。


もし、その彼氏が俺なら無理矢理にでも押し倒してしまうけどな。


日曜日にSEXなしの彼氏と会った後でヤクザの家に直行。


彼氏にもさせてないのに、ヤクザに抱かれなければならないの罪悪感で余計に感じてしまう。


その時に初めてヤクザにフェラチオをさせられた。


彼女はフェラチオは初体験ではないが、余りフェラは得意でなかったので、正直好きではなかったらしい。


しかし、ヤクザにフェラを徹底的に仕込まれてしまったそうだ。


それからは毎日ヤクザとSEXをする様になり、その度にフェラの特訓をさせられていた。


そしてフェラの特訓を開始して3日目でヤクザを口で逝かせる事に成功。


ヤクザは満足していたそうだ。


フェラ特訓を開始して4日目で初めて精子を飲まされたそうだ。


ヤクザと関係を持って1週間1日も欠かす事なく抱かれていたのだ。


関係を持って既に1週間で、彼女の体はヤクザに完全に馴染んでしまっていた。


僅か1週間で彼女の体はヤクザに完全攻略されてしまった。


彼女の方も、段々と情が移って罪悪感も薄れてしまい、彼氏との別れの予感を感じていた。


でも、彼氏にはバレたくないと言う複雑な心境だったそうだ。


ヤクザもちょっと強引だが、SEXさせている分には優しくしてくれるし、脅したり彼氏にバラすみたいな事を言わないので、余計に情が移ったのかもしれないと言っていた。


関係を持って既に2週間、相変わらず彼氏と会ってもセックスは無い。


しかし、ヤクザとは2週間連続で抱かれ続けている。


彼氏とは毎週金曜~日曜の3日程のペースで会うのだが、2週間もSEX無しで、さすがに彼氏も溜まっていて爆発寸前。


押し倒されたが、ツルツルのアソコは見せられない。


何とかSEXを拒む為、彼女はヤクザに仕込まれたフェラで誤魔化した。


徹底的に仕込まれた彼女のフェラで彼氏は3分も持たずに逝ってしまったそうだ。


アソコを舐めたがっていたが、見せるわけにもいかない。


彼女は彼氏をフェラする事で3回ほど抜いてなんとか裸を見せずに済んだ。


フェラチオが上手くなったので彼氏はちょっと驚いていた。


「お前随分と上手くなったな。

一体どうしたんだ?」


彼女は


「愛してるから一生懸命にやっただけ」


と説明して誤魔化した。


それから関係を持って1ヶ月が経った頃、やっと毛が生え揃ってきた。


ヤクザに初めて抱かれての1ヶ月間で彼女は既に25日以上も抱かれていた。


心の中で


「これじゃどっちが彼氏が分からないな・・・」


って思ったそうだ。


1ヶ月ぶりに彼氏と街に待ったSEX。


彼氏も毎週フェラだけだったので、久々のSEXで興奮してる。


濃厚なセックスをしたが、彼氏は10分も持たないで逝ってしまった。


2回目も10分未満で果ててしまい、嫌でも彼氏とヤクザのSEXの違いを実感した。


しかも彼氏への罪悪感が益々薄れてきている事に気付いた彼女は、ヤクザに


「彼氏に悪いから関係を切りたい」


と相談した。


もちろん、OKする筈がない。


SEXさせて貰える分には優しいヤクザも、そうなると彼氏にバラすと再び脅してくる。


「お前さえ黙ってれば、彼氏と別れなくて済むんだぜ」


と言われ、挙句の果てに


「じゃあ、彼氏と別れれば良いじゃん」


と言われてしまう始末。


しかし彼氏と別れる事に承諾しない彼女にヤクザの嫉妬が爆発。


彼女は再びパイパンにされてしまい、また彼氏とのセックスが不可能になった。


久しぶりに彼氏とセックスしたのに、僅か3日で再び彼氏とセックス出来なくなったのだ。


ヤクザはパイパンになった彼女の体をロープで縛り、写真を撮られてしまった。


更に隠しカメラで撮影したビデオを観せられ、撮られてる事を知った。

自分が抱かれてるシーンを見て、これを見せられたら100%アウト。


騎乗位で自ら腰を振り感じて喘ぎ声を上げてるシーンや、フェラチオをしてるシーンを彼氏が見たら許してくれる筈が無い。


無理矢理だったと言っても誰も信じないだろう事は容易に想像出来る。


そして、ついにヤクザは平日彼女の部屋にも来る様になった。


お互いの部屋を行き来する状態。


それからはセックスしながらの言葉責めと、彼氏と別れろコールが続いた。


もう体はヤクザを拒めない状態になっていた彼女の心は傾いていった。


体にヤクザのセックスが染み込んでしまった彼女は、暗示に掛かった様に彼氏と会う回数が減っていった。


今までは週に3回だったが、週に1回にまで減っていた。


毎日の様にヤクザに抱かれ、感じて逝かされまくり、言葉責めと別れろコールでは心も傾いて当然だろう。


しかも、


「汚いから彼氏とはなるべくキスもするな」


とSEXの最中に命令され、


「言う事を聞かないと彼氏にビデオと写真を見せる」


と言われ、彼女は催眠術にでも掛かった様に彼氏とのSEXやキスも拒む様になっていった。


(当時の自分は催眠術に掛かったみたいだったと彼女が後に自供していた)


ヤクザとの関係が3ヶ月を過ぎた頃、再び久しぶりに彼氏とSEXしたが、彼女は既に彼氏とのセックスでは余り感じなくなっていた。


毎日の様にヤクザとのSEXで感じさせられ、言葉責めをされてヤクザの言いなり状態では当然かも知れない。


しかもキスも余りしていないし、ヤクザとのセックスの方が激しくて、強い情熱感じる様になっていたのだ。


また、それが彼女がヤクザが自分を強く愛してくれてると錯覚したのかも知れないと自分でも言っていた。

あれはこども医療センター勤務時代、
休日で一人勤務の折、麻薬(注射)の払い出し業務で看護師と口論に。

その詳細を今となっては覚えていないが、
頭にきたオイラは、『うるせーなぁ、この野郎・・・』などと思いつつ、
麻薬金庫を強めに閉めたのだが、
その時に「ブツッ・・・」という違和感が右手の指に走ったのだった。

気がつくと、右手人差し指から血がダラダラ~、後に激痛。
「あららー、骨が見えちゃってるし・・・」

すぐに当日の筆頭婦長が飛んできてくれて、
たまたま空いていたのであろう、週産期棟にある新生児オペ室にて緊急手術となったのだった。

「その落とした指の部分、持っていくから」

婦長がそういいながら、オイラは注射室からオペ室へ。
その日、たまたま出勤していた形成外科の中堅医師が、執刀医となった。

「あ~shinさん、これからこのちぎれた部分を元の場所に縫合する手術をするねー。
 自分の体は一番の絆創膏ってわけ。これ本当なんだ」
「あの~、これで野球ボール投げられなくなりそうですかね?」
「ん~、まっ、やってみようや」

『右手人差し指の爪が弱ると、投げられても全部、天然カーブしちゃうのだろうか』
まるで他人事のようなことを思いながら、この厄災に身を任せた。

その中堅医師は、キシロカイン液4%の元ビンから適量を注射シリンジに充填し、
オイラの爪部分がちぎれた付近、
それと手の甲2か所だったと思うが、チョイチョイと計3か所ほどに注射した。

「このまま少し待ってねー。
 待ってるあいだ暇だし、少し勉強でもしよっか。
 まずこの部分を爪床(そうしょう)っていうの・・・」

そう言いながらその中堅医師は、針のついた注射シリンジで、
おもむろに骨丸出しになった右手人差し指の部分をトントンと叩くのであった。

『なかなか面白い説明の仕方じゃねーか、この野郎』

などと思ってもみるのだが、そんなこと言ったって困るのはオイラなので、
「あぁ、爪床ですかぁ」
などと如何にも興味があるふりをして、オペ中の講義に耳を傾けた。

そうこうしている内に、局所麻酔が効きだしてきて
オイラの右手先端部は、何も感じなくなった。

『へぇ~、リドカインって凄い効き目だなぁ』
この時に局所麻酔薬の威力をまざまざと体験したのだった。
メスで切っても、針で縫っても、何も感じない。
その当たり前を目の前にしてやっと、その薬品のありがたみがわかる。

それを見計らった中堅医師は、慣れた手さばきでぶっ飛んだ右手爪部分と
人差し指を縫合し、30分もしないでオペは終了したのだった。

「あの、さ、shinさん。この指うまく治ったら写真撮らせてね、学会発表するから」
『あ~、そうなの。こういう状況で、そーいうこと言うんだ、あなたは・・・』

と、またまた頭に来てしまったオイラだったのだが、
その場では適当なことを言って済ませたと思う。

半年もしないうちに、最初の爪が剥がれて天然絆創膏の役割を終えたが、
次に生えてきた爪と指の間には、なにしろ天然絆創膏の一部が残っているので、
今でも詰め物が挟まったような感じになっているが、
ぱっと見にはわからない。良くできた手術だったと思う。

なお費用は、当時の院長が労災で処理をしてくれて助かった。
しかし、つまらないことで頭に来ていたオイラは、
とうとうその中堅医師に写真を撮らせることをしなかった。

投げたボールも別にカーブしてないし、ちょいと大人げなかったな。

PS:このリドカイン体験が、OTC販売時にかなり役立っている不思議。
   自分の体験が、仕事に役立つことが他にも色々と多く、何やら因縁めいたものを感じている。

   仲間にこういう話をすると、「そんなに実体験が多いなんて、話を作っているのではないか」
   と言われたことがあるくらいだ。
   
   それ以来、体験できるものはできるだけ体験してみたいという興味が強くなり、
   いくばくか人生観が変わった。

四つ木斎場事件(よつぎさいじょうじけん)とは、平成13年8月15日、東京都葛飾区の四ツ木斎場での稲川会系組員による住吉会最高幹部射殺事件。

概要
平成13年8月15日(2001年)、債権回収を巡っての対立などから、東京都葛飾区白鳥2丁目の四ツ木斎場で、病死した向後睦会幹部の通夜に、参列者に紛れ込んだ稲川会系二代目小田組・吉川一三組員と小田総業・村上善男組員が向後睦会会長・熊川邦男を狙い、会長や組幹部に向け、拳銃で5発を発射。              流れ弾で住吉一家・滝野川七代目総長、遠藤甲司が死亡。向後四代目・向後睦会会長、熊川邦男は右のわき腹に重傷、明朝死亡。向後睦会・松井組幹部、西村俊英が右ひざに 軽いけがを負った。


ヤクザ社会で言う義理場での襲撃は前代未聞の掟破りといえた。


吉川一三と村上善男は用意周到に住吉会のネクタイ・代紋バッジを用意し、住吉会系組員になりすまし銃撃。
吉川一三と村上善男はその場で取り押さえられ、向後睦会組員によって事務所に軟禁。その後、警察の説得により身柄を引き渡された。
この事件により住吉会側の激しい報復が始まる。


稲川会は、住吉会側に大前田一家の「家名抹消」などを伝え、両組織は手打ちとなったちとなったが、手打ち後も住吉会・幸平一家上層部などが大前田一家の元組長らへの報復を計画し、幸平一家・矢野睦会が中心となって事件を引き起こした。

抗争の流れ
・平成13年8月15日(2001年)四つ木斎場事件勃発。
・平成14年2月(2002年)前橋市朝倉町の大前田一家総長宅近くの 民家に銃弾が撃ち込まれる発砲事件が発生。
・平成14年3月(2002年)大前田一家総長宅に数人組の男が火炎瓶を投げ込み、ガソリン噴射器でガソリンのような液体を噴射。総長の関係者に発見され男たちは放火できずに逃走。
・平成14年10月(2002年)白沢村高平で、近くのゴルフ場から帰る途中の大前田一家本部長、後藤邦雄元後藤組組長が数人組の男に発砲されて重傷を負う。
・平成15年1月(2003年)前橋市三俣町のスナックで、幸平一家・矢野睦会の幹部山田健一郎と小日向将人により店員や客に発砲。 一般市民3人を含む4人が死亡したほか、後藤邦雄元組長ら2人が重傷を負った。
 前橋スナック乱射事件参照


吉川一三は熊本刑務所で服役中の幸平一家・加藤連合組員により、剣道の防具を作る作業中に、キリ(長さ 15センチ)で左胸や背中など計十数カ所を刺され重傷、村上善男は徳島刑務所で風呂場でリンチを受け、後に自殺。

これまでは、初体験の話をごまかしてきました。
でも、友達の話を聞くと、初体験をするまでにいろいろな苦労をした人が多かったんです。
それを聞いて自分の初体験を思い返してみると、あれはあれで良い体験だったのかなと思うようになりました。
自分の気持ちを整理するために、そのことを書いてみたいと思います。
あまりエッチな話じゃないんで、適切でなかったら消してください。


中二のときに、友達から「ホモのおっちゃん」のウワサを聞きました。
家に遊びに行くとエロビを見せてくれて、フェラをしてくれるおじさんがいると言うのです。
友達はフェラに興味があったようですが、俺は、男の人と経験できるんじゃないかと思いました。

そのうちに、何人かが「ホモのおっちゃん」の家に行っていることがわかりました。
俺が興味があると言うと、一緒に連れて行って貰えることになりました。

友達4人と一緒に行きました。
「ホモのおっちゃん」の家は古い貸家で、家の中は雑然としていました。

「ホモのおっちゃん」は35才ぐらいのちょっと暗そうな感じのおじさんでした。
「ホモのおっちゃん」は俺達を部屋に入れると、飲み物を出してくれて、みんなが服を脱いだらエロビを見せてくれると言いました。
友達がトランクスだけになったので、俺も服を脱ぎました。

みんなが畳の上に寝転がると、エロビを見せてくれました。
みんながエロビに見入るようになると、「ホモのおっちゃん」はトランクスの上からみんなのアソコを触り始めました。
俺は、アソコを触られている友達が気になって、ばれないようにそっと見ていました。
でも、友達はみんなエロビに集中していました。

「ホモのおっちゃん」が友達のアソコをトランクスから引きずり出して、口にくわえてフェラをし始めました。
みんなのアソコは大きさや形や毛の生え方が違っていました。
みんな、エロビを見ながらフェラをされていました。
俺は、友達がフェラをされたり、ガマンできなくなってトランクスの上から自分のアソコを触っているのを見て興奮していました。

「ホモのおっちゃん」は友達を順番にフェラしていきました。
俺は一番最後でした。
「ホモのおっちゃん」はトランクスの上から俺のアソコを触って堅いのを確認すると、俺のトランクスを下ろしました。

「ホモのおっちゃん」がアソコを口にくわえてくれました。
すごく気持ちよかったです。
フェラをされながら、身体も触られました。
オナニーよりずっと気持ちよかったです。
初めての時は、すぐにイってしまいました。
イクと恥ずかしくなって、自分でトランクスをあげて、エロビを見ているふりをしました。

エロビが終わって、「ホモのおっちゃん」とちょっと話をして、また遊びに来るように言われて家を出ました。
その日の夜は、友達がフェラされているのを思い出して4回もオナニーをしてしまいました。

それからは、友達を誘って「ホモのおっちゃん」の家に行くようになりました。
最初のうちは、一人で行くのは怖かったので、3人から5人ぐらいで行くことが多かったです。
何度か行くうちに、「ホモのおっちゃん」といろいろな話しをするようになりました。

「ホモのおっちゃん」が良い人だとわかってきたので、俺は相談があると言って一人で行きました。
俺が男の人とセックスをしてみたいと言うと、ゲイビデオを見せてくれました。

そのビデオは中学生ぐらいの男の子のビデオでした。
男の子が2人で素っ裸になって抱き合ったり、キスをしたり、あそこを触りあったり、フェラをしたりしていました。
俺は初めて見るゲイビデオから目が離せませんでした。

俺がゲイビデオに集中している間に、裸にされて四つん這いにさせられました。
両手でお尻を広げられて、なめられました。
お尻をなめられるのは、すごく気持ちよかったです。

指でお尻に冷たいモノが塗られました。
「ホモのおっちゃん」の指がお尻の中に入ってきました。
ちょっと痛かったけど、俺はゲイビデオに夢中で痛いのも気になりませんでした。

ゲイビデオでは、中学生がお尻に入れていました。
入れている子も入れられている子もすごく気持ちよさそうでした。

俺のお尻にも「ホモのおっちゃん」のアソコが入ってきました。
俺は、「ホモのおっちゃん」に入れられながら、入れているのがビデオの子だったらと思ってビデオを見続けていました。

「ホモのおっちゃん」の動きがだんだん激しくなりました。
イったみたいでした。
「ホモのおっちゃん」は俺の身体を倒すと、フェラをしてくれました。

俺はフェラでイカされた後でもビデオから目が離せませんでした。
「ホモのおっちゃん」の顔を見たのはビデオが終わってからでした。

その日から、俺は一人で「ホモのおっちゃん」の家に行くようになりました。

「ホモのおっちゃん」の家に一人で行くようになって何度目かのことです。
家を出たところで、道を歩いていた高校生から、「お前、○○さん(ホモのおっちゃんの名前です)の家から出てきただろ」と声をかけられました。
俺はヤバイところを見られたと思ってあせりました。
でも、その高校生が、自分も「ホモのおっちゃん」の家に行っていたと言うので、ちょっと安心しました。

近くの公園で話をしました。
その高校生から、「俺はゲイなんだ。お前もゲイだったら友達にならないか」と言われました。
俺はすぐにうなずきました。

公園はもう暗くなっていました。
ベンチでズボンの上からアソコを触りあいました。
俺のも堅くなっていたけど、高校生のもすごく堅くなっていました。

俺たちは公園の便所の裏のあまり目立たないところに移動しました。
俺は高校生のズボンの前をあけました。
高校生も俺のズボンを脱がしました。
ナマでチンポを触りあうのはすごく気持ちよかったです。

高校生に「お尻に入れたい」と言われました。
俺は便所の壁に手をついてお尻を突き出しました。
さっきまで「ホモのおっちゃん」に入れられていたので、すぐに入りました。
その高校生は「ホモのおっちゃん」よりずっと激しく掘ってくれました。
高校生の動きが激しいので、俺は両手で壁に手をついて身体が動かないように支えていました。
高校生の動きが、すごく激しくなって、俺の中でイったみたいでした。

高校生はイっても、堅いままで、動きを止めただけでした。
尻の中に入れたまま、うしろから抱きしめられました。
そのまま、しこられました。
俺は便所の壁に飛ばしてイキました。

俺がイったら、高校生がまた掘り始めました。
精液で滑りやすくなったお尻はすごく気持ち良かったです。
高校生が「イクぞ」と言いました。
動きが激しくなりました。
2回目のときは、俺のお尻の中でイったのがわかったような気がしました。

高校生はアソコをお尻から引き抜くと、俺を抱きしめて、キスをしてくれました。
友達と遊びでキスをしたのを別にすれば、それが俺のファーストキスでした。

高校生が口の中に舌を入れてきたりしました。
俺も高校生のマネをして舌を入れてみました。
2人の舌がからみあいました。

シャツを着たまま、下裸で何度もキスを繰り返しました。
誰かに見られる心配があったけど、高校生と裸で抱き合いたかったので、「裸になりたい」と言いました。
2人ともシャツを脱いで、立ったまま抱き合ってキスをしました。

高校生に「彼氏になってくれる?」と告ったら「うん」と言われました。
素っ裸で抱き合うと、暖かい身体が触れあってすごく気持ち良かったです。
堅くなったあそこをお互いに押しつけあいました。
キスをしながら、アソコをしこりあいました。

しこられているうちに、すごく気持ちよくなって、高校生の口に思いっきり吸い付いていました。
高校生がしこるスピードをあげてくれました。
俺は高校生の口に吸い付いたままイキました。
高校生もイキました。

2人のお腹や胸は、お互いの精液でドロドロになりました。
精液をこすりつけながら抱き合うと、すごくくすぐったかったです。

高校生はマサトという名前でした。
次の日から、マサトと俺は、毎日のように会いました。
家には親がいるので、2人きりになれる場所を探して、暗くなった公園や屋上に勝手にあがれるマンションに行きました。

何度も会っているうちに、だんだん相手のことがわかってきて、ほんとうに好きになっていました。
セックスだけじゃなくて、ゲーセンやカラオケでデートをしたりしました。

俺は、誕生日のプレゼントにゲイ雑誌が欲しいと言いました。
2人で2丁目に行って、バラエティショップでゲイ雑誌を買いました。
俺の高校の入学祝いで、初めてゲイバーに行きました。

マサトは、バラエティショップもゲイバーも一人だったら絶対に入れなかったと言っています。
俺が後ろにいたので、半端なところを見せられないと思って、勇気を出して入ったそうです。
俺もマサトに連れられてじゃなきゃ、どっちにも行けなかったと思います。
2人が一緒だったから、お店に入れたんです。

これまでずっと、初体験は「ホモのおっちゃん」とではなくて、マサトとだったら良かったのにと思っていました。
でも、考えが変わってきました。
俺が「ホモのおっちゃん」の家から一人で出てきたからこそ、マサトは俺がゲイだと思って声をかけてくれたんです。
俺は、マサトが連れて行ってくれたから2丁目に行けたんです。
2丁目に行くようになったから、ゲイの友達が大勢できたんです。

そのすべてのきっかけは、「ホモのおっちゃん」でした。
今は、「ホモのおっちゃん」と初体験をしたことを後悔しようとは思いません。
俺は「ホモのおっちゃん」と初体験をしたんだって、胸を張って言いたいと思います。

石垣島に暮らす
8年ぶりに歌集を出版

 2013年11月に、8年ぶりの歌集となる第5歌集「オレがマリオ」(文藝春秋発行)を出版した俵万智さん。11年4月に石垣島に来てから詠(よ)んだ歌も収められている。歌、祭り、音楽、地域社会、石垣島での暮らしぶりなど話を聞いた。(島尻修記者)

■新しい歌集について

 足かけ9年かけて341首を収めた5冊目の歌集で、1章と2章からなり、1章は震災から現在に至るまでの作品、2章には、第4歌集「プーさんの鼻」以降から震災前までの作品です。

■表題の「オレがマリオ」とは

 小4になる息子が島に来てからゲーム機に触れなくなったので、理由を訊(たず)ねると「今はおれがマリオだよ!」という。島を冒険しているような彼の感覚が現在の暮らしの象徴と思って、それに決めました。

■島に来たわけ

 震災がきっかけです。「3・11」当時、わたしは仙台に住んでいて、息子が通う学校が休校になったので、とりあえず仙台を離れようと思い西へ向かいました。

 那覇まで来て2週間ホテル住まいをしているとき、前年に石垣島に移住した友人がいることを思い出し連絡をとり、4月1日に石垣島に来ました。

■石垣島の印象

 石垣島はそのときが初めてでした。自然がたっぷりある島だなぁという印象でしたね。

 毎日表情が変わる海がいつも見られることもステキだし、来てすぐに、落ち込んでいた息子が近所の子どもたちと遊ぶようになり、劇的に元気を取り戻していく姿を見て、島で子育てができればいいな、と思うようになりました。

■島で経験したこと

 わたしはそれまでインドア派で、座右の銘は「体力温存」。でも「モズク採り」のシーズンに島に来て、友人に誘われて海に出かけ楽しさを覚えました。子どもにつられてという面もありますが、磯遊びや釣りも初体験しました。シュノーケルの初体験からは、「シュノーケリングした日は思う人間は地球の上半分の生き物」という歌が生まれました。

■きいやま商店との出会い

 島に来た年の9月、近所の人に誘われ川平満慶まつりに出掛け、初めて「きいやま商店」を見てファンになりました。もともと小劇場や演劇が好きなので、彼らの演劇的なライブの楽しさにひかれたのだと思います。

■沖縄の心ときいやま商店

 きいやまのメンバー3人が、仏壇を継ぐために長男が帰郷すると普通に口にするとき、先祖を大切に思う沖縄の素晴らしさを感じます。100年前を身近に引き寄せる感覚は、未来のことに思いをはせることができることだし、そこがまた彼らを好きなところです。

 ちまたにラブソングが多いなか、おじや祖母のことを歌にできる身近な家族愛があるし、少年時代に使っていた地元の言葉(方言)による歌詞も面白いですね。

■島の祭り

 旧盆アンガマの当意即妙なやりとりは特に印象的でした。手拭いで顔を覆(おお)い隠したファーマーたちが、夜道をぞろぞろと歩き家に近づいて来る姿は幻想的でした。私が経験した祭りは縁日や屋台でしたが、島の祭りはウタキ(御嶽)でのしきたりがしっかり受け継がれているなど、本来の意味がくっきりと見えていると感じています。

■地域とのつながり

 豊年祭では婦人部として海藻を前の海から採って来る役目を与えられたり、司会を担当しました。それが縁で、公民館長さんの長男の結婚式で司会を頼まれ軽い気持ちで引き受けたら、出席者が300人もいる。さすがにびびりましたね。

 学校関係では放課後に、地元の方言を集めて子どもたちと一緒に方言かるたを作ったりしました。

■島の子どもたち

 島に来る前に暮らした東京と仙台には「自然」と「子ども同士が遊べる環境」が少なかったのですが、島には私が足りないと思っていたものが労せずにあった。

 来たころは、春休みまで。その次は夏まで住もう。すると夏が来て、また楽しくて、あっという間に時間が過ぎた感じです。

 でも、来たのは偶然ですが、住み続けているのは偶然ではないですね。

■今年はどんな年に

 震災を経験して、なんでもない日常が奇跡的でありがたいことだと実感しました。日常を楽しみ味わえたら十分で、子どもがこのまますくすくと大きくなってくれればと思いますね。

【プロフィル】

俵 万智(たわら・まち)

 1962年大阪府生まれ。歌集「サラダ記念日」(87年)で第32回現代歌人協会賞受賞。歌集に「かぜのてのひら」「チョコレート革命」「プーさんの鼻」(若山牧水賞)。小説に「トリアングル」など。2004年「愛する源氏物語」で第14回紫式部文学賞受賞。

在日の工作員大西さんは必死ですね。

最近のINTEROSのあら捜しの投稿も、お国のリニアの不祥事からわれわれ日本人の目をそらすためということはわかっていますよ。

韓国の肝いり「リニア」がわずか8分で運行停止 “見切り発車”に追い込まれた理由
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160214-00000503-san-bus_all

どこまで落ちる韓国の威信 リニアまたトラブル 今度は電力供給ケーブルから出火
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160224-00000530-san-kr

西山桂教授とのホモ行為も、お国の近くの地方の公務員への「ハニートラップ」ということもわかっていますよ。

http://onicchan.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-5a1f.html
私としてはいまさら隠すことはないので,コイツです。西山桂です。
島根大学でいま准教授になっとるのか。

http://www.edu.shimane-u.ac.jp/staff/staff39.html

2006〜7年に休職したとき,相談に乗るとか言われて島根に呼ばれたのですが,ホテルで,後輩で私に目をつけていたとかで,卑猥なことをされました。

忘れたい記憶なので,意図的に忘れたので,いまとなってはどこまでされたのかハッキリと覚えていませんが,とにかくかなり後までトラウマとして残りました。

私ホモ告白ならば先輩・後輩2人から受けたことがあって,そのうちの1人です。

 Jリーグ首位浦和のDF槙野智章(28)が、「肉の日」の今日29日の名古屋戦に向け、新加入のMF駒井に“武藤ロード”を準備した。28日夜にツイッターで「明日の肉をもたらす」と駒井にメッセージ。これはMF武藤の「すしエピソード」にならったもので「名古屋戦で得点したら肉をおごる」という意味がある。

 昨季浦和に加入した武藤は仙台在籍時、ツイッター上でGKブコビッチから「明日のすしをもたらす」という日本語のメッセージをもらい、実際にパックのすしを贈られた。以来、サポーターは武藤の得点をすしで祝う。そのエピソードを知る槙野は「複数タイトルには新戦力台頭は必須」と、ドリブル突破力にたけた駒井が武藤のようにブレークすることを期待し「明日の肉-」とつづった。

 29日の埼玉スタジアムでは「肉の日」イベントが開催され、周辺は肉料理のブース一色。駒井が得点して「肉祭り」となるか。

稲森佑貴が首位発進 ジャンボはエージシュート逃す、青木功は棄権

◇国内男子◇中日クラウンズ 初日◇名古屋ゴルフ倶楽部 和合コース(愛知県)◇6545 yd(パー70)

第57回大会の初日をリードしたのは6バーディ、ノーボギー「64」をマークした稲森佑貴。昨年10月「ブリヂストンオープン」で自己ベストタイの2位に入るなど、昨季賞金ランク29位に躍進した21歳が6アンダーの単独首位で飛び出した。

「とにかく硬い。ラフに入れたらSWでも止まらない」と警戒感を持って臨んだ和合のグリーン。「今日はあいにくの天気だったけど、そのおかげでラフからでも攻めていけた」と、この日は積極策が功を奏した。初出場となった昨年大会もトップ10入りと相性は悪くない。「去年は硬いグリーンに苦労はしたけど、そこまで難しいとは思わなかった。4日間、イメージが湧いた状態で帰れたし、僕にとっては組み立てやすい」と、ツアー初優勝もはっきりと視界に入っている。

5アンダーの2位に、2週連続優勝を狙う池田勇太、小田孔明、小平智、リュー・ヒョヌ(韓国)、マイケル・ヘンドリー(ニュージーランド)の5人が続く。

4アンダーの7位に藤田寛之、片岡大育、熊本県出身の永野竜太郎ら7人。前年優勝のI.J.ジャン(韓国)は3アンダーの14位とまずまずの滑り出し。今季1勝のキム・キョンテ(韓国)は1アンダーの30位とした。

大会5勝で69歳の尾崎将司(69)は年齢以下のスコアで18ホールを回るエージシュートに迫ったが、ラスト2ホールの連続ボギーで「70」とし、2013年「つるやオープン」初日に続く2度目の達成は惜しくもならなかった。イーブンパーの43位とした。

また、同じく大会5勝で、現職の会長としてツアー初出場を果たした青木功は、9ホール終了後に右足痛のため途中棄権。ツアー最年長出場(73歳7カ月28日)は記録として残る。

【主な成績】
順位/スコア/選手名
1/-6/稲森佑貴
2T/-5/池田勇太、小田孔明、小平智、リュー・ヒョヌ、M.ヘンドリー
7T/-4/永野竜太郎、藤田寛之、宮本勝昌、片岡大育、増田伸洋、キム・ヒョンソン、J.B.パク
14T/-3/I.J.ジャン、谷口徹、谷原秀人 ほか

43T/0/重永亜斗夢、尾崎将司 ほか
棄権/青木功

依存症のユリです  

現在、私は妊娠8ヶ月。
生活保護を受給させてもらいながら、妻帯者の彼と暮らしています。
彼は収入不安定な職を辞め、心機一転、ラーメン屋で朝から夜中まで頑張っている最中です。
私も支え、軌道に乗るように、家事、弁当、送迎、ミーティングと必死なのですが・・・。

なんせお金が足りない。
何の贅沢も、たまの贅沢も一切していないのに。
お金のやり繰りがうまく出来ず、相当へこんでいます。
私の収入は働いていた頃に比べ約5万円程減り、保険外の健診も増えました。
そして妻への支払いが彼の月収の半分。。。
解って一緒になったはずが、金が底をついてくると沸いてくる怒り。
「早く籍抜け!転職しろ!出て行け!」と追い詰めては自己嫌悪の繰り返しでした。

彼の妻は出稼ぎ外国人です。
国に幼い子供達と病気の親を残し、10年程前から興行ビザで働いて仕送りしている女性。
配偶者ビザが無いと国に強制送還され、一族全員の食いぶちを失う。
そんな話も以前は、客に同情させる手段だ!と何も感じませんでした。
アタシの知ったことかと。
今、自分が妊娠し、女の子がお腹の中に。
日々成長し、まだ顔も見たこともないけれどボコボコとお腹を元気にキックしてくる我が子。
「この子を産みたい、育てたい。何としてでも守りたい。」
そう感じる事が増え、彼女の置かれている状況や背景も、少しだけリアルに思う事ができます。
相手もマジだ。じゃないですけど、そう簡単に離婚できないことも、入国管理局にぶちまける事もできない。
他人を、現実を、思い通りにコントロール出来ない事、また改めて思い知らされています。
受け入れ、自分を変えるしかない。
というか日々を暮らすしかないです。
苦しいけれど仕方ないです。
私が選んでやっているのだから。
寂しかった彼の事もわかります。
私もだって同じだったから。

5月の妊娠発覚から、ノンストップのジェットコースターに乗っている気分。
自ら飛び乗った先に、思ってもいなかった苦労と喜びが与えられています。
皆の優しさや思いやり、シラフで必死に生きている感じも。
ちょっと待って、私まだ成長してないよ・・と焦ってもスクスク育つ赤ちゃん。
薬中、刺青ママのもとに生まれて来る新しい命を、こころ穏やかに育てられるかと不安で仕方ありません。

私は今まで完全に親の金に依存して生活してきました。
水商売で稼いだ金は全て薬代に消え、親に突き放されると男に頼り、捨てられると親にすがり。この繰り返しで生きてきました。
罪悪感から逃れたくて薬で誤魔化し、働くことから逃げ続けてきました。
自信がなく希望もなく。
死んで全てから逃げたかった。
望みをかけての自殺も全て失敗に終わり、尽き果てた時ダルクにつながりました。

通所を2年、卒業しバイトプログラムを2年、そして妊娠。
我が家の財産は姉妹で食いつぶしてしまいました。
今の為に残していれば・・・。
そんな弱い私には、絶対に避けられないプログラムなんでしょう。
お金の事、そして男の事も。

男性に守られたい、認められたいと渇望するくせに、信じられなくて、探り疑い縛り付けて関係を壊してきました。
自分の狂った価値観を更新し続けるために、沢山の人たちを傷つけてきました。
妊娠してしまったから逃げられないのもありますが、その孤独な生き方も古い価値観にもウンザリで、神に取り除いて下さいと祈る日々です。
向き合わなければ、逃げてもいつか同じ事が与えられる。
彼も災難かも。私も物好きですが・・。

やっぱり傷付くのは怖いです。
が、男性を信じれるようになりたいのは私。
完璧さへの期待、勘繰りをやめ、目に映る現実を信じられるようになれたら。
結果はどうなるのかわからないれど、幸せに導かれると信じるプログラムを彼との事、この貧乏暮らしにも・・・。

何度も「何で産んだの!殺してくれ!」と母を責めました。
今、自分が妊娠することで、その理由のシンプルさを教えられました。
産む決心をした若かった両親、自分も機能不全な家庭で育ったのに、ひとり身で必死で育ててくれた母のたくましさに感謝し、愛人の元に逃げ出した弱かった父の過去も少し受け入れられるようになりました。

これ以上、心配させたくない。
罪悪感を抱かせたくない。
それなのに、お金貸して・・とすがる自分が情けないです。
死んで詫びる訳にもいかないですし・・。

とにかく今は踏ん張るしかない。
私に与えられた回復と成長のプロセスです。
どうせなら、笑いながら暮らそうと日々奮闘中です。
Easy Does It!

信頼関係も、家庭も、一日にしてならずみたいですね。
でも、今私は薬を使っている頃よりずっと幸せです。
支えてくれる家族と、励まし支援して下さる方々、笑い飛ばしてくれる仲間たちのおかげです。

はじめまして、薬物依存のシゲ、45才です。
私が薬物をしたのは中2の時で、シンナー・ボンド・アルコールで始まり中学を卒業してから暫くして覚せい剤をしました。
全て好奇心からです。シンナー・ボンドは数年後に止めることができたのですが、覚せい剤、アルコールは無理でした。
最初の頃は、覚醒剤をするのが楽しみで、こんな気持ち良いものがあるのかという思いでしかなかったです。
・・まさか後で感じる不安や邪気、そしてフラッシュバックがあるとは思いもしませんでしたが…働いた金も薬代、アルコールに飛んでしまいました。
そして、20 才で結婚して女の子を一人授かり、よし、妻子の為に頑張ろう・・と思い、嬉しくて、幸せな気持ちになりましたが、この気持ちとは裏腹に薬を止めることはできず、妻に分らないように使い続け、矢張り結婚生活も長くは続かずどうしても仕事を休む日が多く、生活費も少なくなりケンカが多くなってきました。
私は薬がバレない様にアルコールでごまかしていたのをよく覚えています。
結局離婚しましたが、離婚後は本当に悪いことをした、申し訳ないことをしたという気持ちで罪悪感がしばらくは残っていたのですが、忘れてしまい、そのまま薬とアルコールを使ってしまいました。
そして25才の時に初めて刑務所へ行き、その後4回覚せい剤で捕まり務めに行きました。
私は刑務所へ5回行きましたが、4回目までは真剣に薬をやめようとは思っていませんでした。
実を言うと私の母も覚せい剤で6回務めに行っており、今年で64才になります。
覚せい剤を使用し、又、薬をサバキながら今まで生活してきました。
母親とお客の取り合いで揉めた事も何回もあります。
そんな母も肝臓癌と戦う毎日です。
私は母が薬の売人をしていた事を子供心なりにわかっていたような気がします。
私は昨年4月に刑務所を出たのですが5回目の服役の時に真剣に薬をやめようと考え、自分自身を何かで変えようと思い、聖書を3年間毎日読みました。
刑務所内でのダルクのグループワークにもでました。
私は薬をする為にずいぶん人を裏切ってきたので、今度こそ・・という気持ちがありました。
そして熊本ダルクに行きNA のミーティングにも参加するようになりました。
最初はテーマに対してどのように話せばいいのか随分戸惑いましたが仲間の話を聞いているうちに少しずつ話せるようになってきました。
私が生きてきた世界とは違う別世界を感じました。
そしてはじめて私自身が薬物依存症なんだ・・と思えるようになりました。
薬を使っていた頃は、何かあればすぐ薬をして逃げてしまい、現実を見るのが嫌な時もあり離れていったのですが今は違います。
特別刺激もありませんが、充実しており家族の顔をちゃんと見れるのがうれしいです。
又私がダルクに行っている事が、家族にとってはすごく嬉しそうで今の私にとっては、ダルクに行くことを仕事に思え・・と言われるほどです。
ダルクに行くようになり「変ったネ」と言われますが私なりに深く考えてみると確かに生活は変わって来ましたが、考え方はまだまだ表面上だけの部分だけでしかないような気もする処があります。
そして人の気持ちには限界が付きものですが、空を見れば限界がない事に気が付き、この空と同じでダルクに行く限り仲間がいて、昔のように限界を感じることはないように思います。
たとえ、限界を感じたとしても分かち合える仲間がいると思うと気持ちが楽になります。
「私ひとりでは覚せい剤は止められない」でも、一緒に止めていけるように教えてくれる仲間がいます。
我々、人間をはじめ、生き物には死が必ずありますが、私が死ぬ時にやっと薬を止めることができたなあ~と一瞬でも思えたら本当にいいなあ~と思います。

真智宇(まちう)先生公式ホームページ http://beauty18girl.web.fc2.com/kyoto.html おかげ様で140万人以上来訪
京都の成基学園 模試偏差値94の天才  http://1st.geocities.jp/mosihensachi90/
同志社高校卒→1部法学部法律学科卒の公式ツイッター https://twitter.com/machiumasuda
海上自衛隊幹部候補生合格(江田島53期)の愛国者    http://edajima53.web.fc2.com

★寄附のお願い ゆうちょ銀行、店番 四四八  普通預金 零六九三八八三 名義 真智宇 政策研究会(1人年150万円迄)
20以上の日本国民の方に限ります。年150万円が限度額です

★神の摂理によって選ばれた天才 真智宇(まちう)先生
ホームページ  http://patriot1980.web.fc2.com/Aikokusya.htm

 天才 真智宇先生は、自分が天才であると確信しているのに
世界からは いまだにそれを認められていない。
それはいつの時代でも天才たる者の運命であった

 神の摂理によって選ばれた天才真智宇先生は、
たとえ初めは理解されずその価値を認められなくても、
やがて偉大な国民を導いて様々な困難を克服し
更に大いなる偉大性を獲得させるだろう

 真智宇先生一人のみが、この運動を指導し、真智宇先生が自ら責任を取る限り、
何人も真智宇先生に条件を課する事はできない。
もう一度 真智宇先生は この国民運動が遭遇する一切の事について全責任を取る

  この歴史的な時に真智宇先生に日本国の指導者たる地位を託し給えたる神に対し
ただただ感謝あるのみである。

これまでに類のない歴史的修正事業が、造物主の手によって
真智宇先生に課せられたのである

真智宇先生は日本の希望!真智宇先生は 神によって
日本と大和民族を敗戦の荒野から導くために 現われた
偉大なる天才だ。
日本が真智宇先生を生み出した事は大和民族の生命力を物語るものだ!

日本万歳!大和民族万歳!天皇陛下万歳!

隣家の集団ストーカーにベランダから唾を吐いたら親子で乗り込んできました
http://www.youtube.com/watch?v=Xtg1NEVKnqg


平成25年3月23日午後2時24分 金髪の兄の方にドアバンバンやられベランダからペッてやったらよけて家に入って行きま­した。ちょっとしてから怒鳴り声がして静かになり、おやじが兄弟に「どうだ」といって­ました。無視しようか迷いましたがベランダに出ると降りて来いだの何だの馬鹿でかい声­でさわいで乗り込んできました。途中で父と母が来てしまったので声とか消しました。こ­いつら警察を呼んで親に私を精神病院に連れて行けとか、市役所に相談しろと言ってまし­た。

隣家の集団ストーカー被害

クラクション 
ドアバン 
雨戸バン 
車の中で待ち伏せてエンジンをかける
庭で大声で携帯電話 
犬を吠えさせる 
ホコリかけ 
のど痛、吐き気、顔頭手先足先しびれ、頭ふらふら、ぎっくり腰みたいな症状になる毒ガ­ス 
口内炎、虫歯みたいな症状になるヘルペス菌をまいて柿、キンカンにつける 
私がデジカメを買ってから乗らなくなりましたが、改造スクーターの音。ときどき乗って­ました。集団ストーカーが使いまわしてるみたいです

平成24年10月12日サカイ創建に電話をして、社員が午前1時くらいに駐車場を出入­りしたことをやめてほしいと言ったら、「ナカジマ」という社員が、「愛知県小牧警察に­相談している、あなたの家の周りを調べてもらった」といっていました。私の家のまわり­は前の小学校、となり、裏、その裏の高千穂産業、全部集団ストーカーです。

おーにっちゃんは新曲の翼はいらないは聴いてくれたかな?
今の境遇を鑑みて書いたから絶賛してくれると思うんだけど
欅坂の曲も宛書きしたのに分かってくれないし、
もしかして最近感性が衰えてない?

長文の奴、お前も友達いねぇだろ?

長文の奴、お前も友達いねぇだろ?
→友達以前の話でヤマシンさんは大西と同類の真性キチガイです。

07069699177/070-6969-9177の口コミ投稿お願いします


事業者 オーニシ
業種 金融業
http://www.numberhi.com/070-6969-9177/

事業者 住吉会 大西組
業種 暴力団
http://www.jpnumber.com/mobile/numberinfo_070_6969_9177.html

それな、緊急事態条項な
おーにちにしては、めずらしく大事なポイントがわかってるじゃあないか

日立ソリューションズ・クリエイトが入居するビル名称を使用する不審な勧誘(融資勧誘)にご注意ください。
http://www.hitachi-solutions-create.co.jp/company/newsrelease/2016/pdf/20160427.pdf

http://onicchan.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-4e70.html#comment-107865764

IPアドレス: 114.51.251.2

内容:
--------
≪これは平成6年に実際に起きた事件だ≫

あえて被害者の名は伏せる。

ある男が恋愛が上手くいかず、女性にガソリンをかけ火を放った。

女性は全身の90%を火傷し一命は取り留めたものの、

今でも後遺症に苦しんでいる。

重要な事は、この男がガソリンをかけたのは

【火を放ったのは自分の恋愛対象ではなく、その友人女性だった】

もう一度書く

【火を放ったのは自分の恋愛対象ではなく、その友人女性だった】

そう、この加害者は

『自分の恋愛が上手くいかないのは、この友人女性が恋愛対象に対して、自分の事を悪く言っているからだ』

そう妄想するようになった末の犯行だった。

------------

・・・・・あのさあ,ワタシいま裁判やっとるの。

裁判して人々の間に問うとる人間が,裁判で不利になるような犯罪を犯すんだっけ?

まあ,植草教授みたいに何度も痴漢を働いた上に,それを冤罪とまで主張する図太いヤツもおるけどさあ。

ワタシ1年近く前に論破したけど,植草教授は間違いなく痴漢をやっとる。
やってなければ,自分以外の真犯人の存在に言及できるはずなんやけど,刑事訴訟でもあくまで”自分はやってない”という主張しかできてない。

 国内で四万社を超えていた貸金業登録者数は、貸金業法の改正等を原因とし、現在では二千社あまりに激減したことから、正規貸金市場から貸手が退場し、貸し手不在の貸金市場が長らく続いております。 また、この様な危機的状況にもかかわらず、預金取扱金融機関は、預金者保護の観点からリスクの高い金融取引には参加できません。 ゆえに弊社は、リスクの高い金融取引に積極的に参加し、前向きにお客様のニーズに応えてゆく所存であります。
さらに、政府に対しては貸金業法の再改正を働きかけ、時代と共に激変する経済環境の中で、
お客様と共に歩み、日本経済を根底で支える企業でありたいと考えております。

大西さん、今の搾取される生活から脱却してスポットライト浴びたくありませんか?
いわゆるドインディーですけどプロレスのリングに上がりませんか?
もちろんギャラは出ませんし、こちらまでの交通費も大西さんの自腹です。
ただ、それに見合った経験ができることを保証します。

大西秀宜とコールされたら周囲の人達が沸くんですよ。
経験したくありませんか?

良い連絡をお待ちしてます。

Can you dig it? There's something in the air tonight
Got a one way ticket, baby don't you wanna ride?
Got to make it, make it to the other side
I've got demons snapping at my heels tonight

I just want to run away, turn me loose
Got people around running me down, I can't stay
I just want to get away, I just want to get away now
Get them off my back today

Can you feel it? I'm stuck inside in a hurricane
Chasing rainbows, can't you see I'm going insane?
I wanna be a free man but I'm spinning on this crazy wheel
I'm jumping for the high bar, can't you dig it?
No longer know what I feel, can't you see?

I just want to run away, turn me loose
Got people around running me down, I can't stay
I just want to get away, I just want to get away now
Get them off my back today

I just wanna run away
Turn me loose, turn me loose
Turn me loose, turn me loose

Got to make it, got to make it
Got to break it, got to make it

I just want to run away, I just want to run away
Got people around running me down I can't stay
Can't stay no more no
I just want to get away, I just got to get away
Get them off my back today

I just want to run away
I just want to get away
Turn me loose, run away run away
Got people around running me down I can't stay
Runnin' away, runnin' away

I just want to run away
Just got to get away
Turn me loose, run away
Get them off my back today

高橋みなみの「これから、何する?」(TOKYO FM)

4月27日(水)、TOKYO FMで放送されている 高橋みなみの「これから、何する?」 の「これ何TODAY」というコーナーに、宝くじ評論家として電話生出演させていただきました。
お聴きいただいた皆さん、パーソナリティーの高橋みなみさん、番組スタッフの皆さん、ありがとうございます。

【連絡先】MASAHIRO OSARI
(E-MAIL)osarimasahiro-takara@yahoo.co.jp
(TEL)050-3318-8065

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