私もいろいろと考える。
いちばんいいのは道行く人々をとっ捕まえて、このヒトの悩みを真摯に聞くこと。
けど、道行く人々をとっ捕まえたところで、自分の悩みを素直に言ってくれるヒトなんているはずもない。
そうすると、①自分の悩みを主張するのが先決なのか、その前に②相手に対して自分が認められるのが先決なのか、③その他の指針を示すのが先決なのか、ということになって、私は②なんかが個人的にはいいと思うけれども、①や③がダメとも言わないし、私だって①や③の手法も使っている。
いま戦争が切迫しているけれども、憲法第九条の手前、戦争をリアルに感じてこなかった日本人は、戦争が切迫していること自体あまりリアルに捉えておらず、太平洋戦争のときと同じく、戦争になった後に、「あの時気づいていれば・・・」ということになると、コレはリアルに考えている。
けど、じゃあ築地市場の豊洲移転問題を問題と主張したところで、「それに対して自分はどう行動すればいいのか分からない」という人が多いのではないかと考える。
私なんかは、自分がどうして結婚できないほど貧乏なのか、どこかおかしいんじゃないか、という主張で切り込むけど、じゃあそれに対して相手がなにをすればいいのかというので、”労働運動”と言うのもどうかと思ってしまう。
いやもちろん結果的には労働運動に繋がるんだけれども、いま人々が”労働=イヤなもの、仕方なくするもの”、というようなイメージを持っているので(為政者側がそうしてきたからだけれども)、そのイメージを払拭しない前に”労働運動”と言っても、なかなか響かない感じがする。
目の前にある事実を事実として受け取れず、事実として主張したら「大人になれてない、厨二病だ」とか言われてしまう社会の思想自体がおかしいのだけれども、それを主張したところでなかなか受け入れられない。
まあ私にはひとつ案があるけれども、それはここに書くわけにはいかない。
しかしそれ以外にも、地道に取り組む方法はないのかなあ?とは思う。
いやもちろん、それとは別に、共産党スレでガンガン書いて日本共産党員に対して主張するというのもあるとも思うけれども、日本共産党の一部だけを相手していていいはずはないし。
あそうそう、”女性が活躍できる社会”とかいうのも歪曲されとるよなあ。
”女性が活躍できる社会”って、私は何度も書いているけれども、周りの人々が、「あの人は産休を取って休んだほうがいい」と主張できることであるし、女性がそのまま育児に専念したければ専念したいと主張していい社会ということになる。
けどそれは、一歩間違うと解雇自由と同じ理屈になってしまう。
そういう意味でも問題なんやけど。
発想をコペルニクス的に転回して、女性の産休を一切認めず、退職にする代わりに、そのぶんの賃金を男性なり、シングルマザーの場合は何らかの手当てとして出す案だってあると思う。
そんな男尊女卑な、と思われるかも知れないけれども、”働き方改革”の名の下に、子供を産んですぐ低賃金な職場で8時間以上の労働をし、子供を民間の保育園に預けて、子供が死ぬ可能性があることまでをも考えれば、全くあり得ない話ではない。
”男尊女卑”というのも、どうして”男尊女卑”になったのか、それを女性は本当に嫌がってきたのか、を一回全部ひも解いて考えて、改めて現代に置き換えた場合に、では女性はどうあるべきか、という解が導けるように思う。
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