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2016年12月17日

2016年12月17日 (土)

なんかWindowsの不具合とかで固まって、私の下書き全部パーになったぞw

そんなの、当然のようにあり得るんやけど、なんかハラタツなあ。

てかコレ書いてから、明日のために、私はもしかして酒気があったらマズイと、トイレに籠城して、そのうえでやむなく吐いてまでいる。
私もけっこう大変や。

その上で、や。

だってこれまでは、保存の作業をしてなくても、”tmp”とか検索したら、自然に保存されとった。

けど、いまは違う。
なんで技術が衰退してもてん?

私は、技術が衰退するのは必然と思うし、それはかのアインシュタインだって言うたことや。

じゃあどうして、みんなは、アインシュタインの主張に耳を傾けられんのかなあ?

なんか、いっぱい言いたいことある。

そりゃ、オナホは、TENGAが切り拓いてくれたし、個人的にはポケットTENGAってヒットと思う。
いまさらやけど、最近気づいた。
エロさは感じないけど、疲れんねん。

いやTENGAじゃなくてリアルに彼女を作れよ!という声が聞こえてきそうやけど、私の彼女、ってかどう考えても運命の相手は伊達娘で、私は日本政府に及ぶ諸事情により伊達娘と逢えんから、やむになまれずオナホに頼っているのが実情であって・・・
って、いっくら恥ずかしかろうがなんだろうが、それがいまを生きるリアルな人間の実情やん。(まあ伊達娘を選んで妄想するのは、いろいろ議論がありそうやけどなあ・・・)

まあ、そんなのも含めてええやん。
私が伊達娘についてどう考えるか?なんて、ブログに書こうがなにしようが、個人の自由や。

てか、それでも、伊達娘を契機にして”ナイアガラ”に行ったけれども、”ナイアガラ”で突然西脇駅2番線(そもそも2番線ってそんなに使われてなかった。国鉄時代はなるたけ本屋側の1番線を使うのが常識やったし)の色紙

http://onicchan.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2016/12/17/k3200397.jpg

を見て、・・・いや10年前も見たハズで、なんとなく記憶にあるんやけど、コレは私は故郷問題として取り上げろという、神(キリスト教などで偶像としてリアルに描いているものではなくてではなく想像上の)のお告げなんかなあ、と思うたりする。

ブログで当時の写真を載せとるヒトがいる。

http://blogs.yahoo.co.jp/hankai_kinokuni/13186949.html

http://fuzzyphoto.blog120.fc2.com/blog-entry-961.html?sp

しかし、儲からんから廃線、という理屈からいうと、じゃあ儲からん(クルマが通らん)道路はどんだけあんねん?ということになるよなあ?

クルマがそれなりに通る道路があって、それは黒字とか赤字とか関係なく、地域の交通として必要で、
さらにそこに守られねばならない人々がいて、彼らを守って地域の公共交通を維持するのは、それは黒字とか赤字とかいう問題ではなくて、自分らがどう自治したいか?の問題になるやろ。

日本政府は、めちゃくちゃおかしくなっている。

私のブログにどれだけこうして攻撃のコメントがあるのか?についての考察

以前も書いたけど、やはり、そんな観点からの考察も必要と思う。

私は極めて現実主義者で、あんま”お勉強”なんて好きではない。

私はよく書いているけれども、勉強なんて、生きていくのに困ったときに、誰かに聞いて、かつて似たような問題をこういうふうに解決したヒトがいたよと言われて、そこで初めてマルクスをざくっと読む、というくらいでいいと思う。

中には学問を究めたい学者もおるやろけど、学者とは、生きていくのに困った人々が訪ねてきたときに、自分のあらん限りの知識を総合して、こうすればいいのでは?と言える、
まあいわば、思考に関するお医者さん、みたいな役割でええと思う。

けれども、学者とは本来そんな、人々を幸せにするために率先して勉強をしとるはずやのに、ノーベル賞をはじめとして、権力者がアレコレと称号を付けて与えるから、学者もその称号と、それに呼応する所得をもって、自分は偉いんだ!と威張ってまうのが実態やねん。

その考えの延長上で、マルクス主義者の中でさえ、自分に与えられた称号をもって、自分は偉いんだ!と威張ってまう。

けっきょく、いっくら革命を声高に叫んだところで、自分に与えられた称号をついつい自慢してまうのが人間のサガで、それがいろいろと分裂に次ぐ分裂を生み出す根源的な問題といっていい。

私は、その考えに抗して、アタリマエのことを主張したらええやん、とつねづね言い続けている。

コレが権力者側にとっては、中核派以上に怖い存在なんじゃないか、と思っている。

たとえば、いま婚活サイトとかいっぱいあったり、婚活から脱落して(私みたいに)アイドルとか二次元とか、リアルではないものを追うとる若者が多いけど(・・・私の場合はそれだけが原因ではないけど)、

若者がそもそも論として、どうして自分は結婚できないんだ!と言って、ただいきなり労働運動とかし出してもみんなビビってまうかもワカランから、まずは最初から、じゃあいまのあなたはどういうヒトと付き合えばいいのか、みたいなことを、ぶっちゃけ話せたらいいと思う。

だって、給料が少ないこととか、手当とか子供に関することが足りてないことも含めての少子化とか、それはもうリアルな労働運動の闘争課題やん。
マルクス主義とか概念的に学ぶまでもなく。

そうすると、もう本当に、あなたはどうやって付き合うヒトを見つけたらいいのか?みたいなところから始めて、給与は欲しいけど、まずは給与なんてなくたって、2人で自立して生きてければなんとかなるよねみたいな話になって、
そうすると、とりわけオトコなんか、年収200万とかで彼女なんてできっこないと思うとったけれども、そうでもないんじゃないかと思ったり、オンナだって、年収200万という上っ面だけだと相手にならないと思っていたけれども、会話していたら、こういうヒトならば信頼できるよね、と思って、付き合いたいと思うかもワカランやん。

もちろんそんな中で、付き合えたからメデタシメデタシではなくて、親の世代はフツーに結婚して子供も産めたし、おじいちゃんおばあちゃんの世代は子供が複数いたし、さらに上の世代は10人兄弟とか平気でいたし、そう考えると自分らは子供を1人産むのもやっとで、そうすると、その子供はどう考えても結婚なんて無理な将来が待っているよね、みたいなところまで議論もせなアカンとは思うけど。

そんな話題をする若者が、たとえば47都道府県に1人ずつでもいて、議論していったら、もうたちまち議論の火の海になってまうはずやねん。

私は、国交省とか鉄道総研とか出てくるホームドアの会議に出て、”あるべき鉄道”というものを想像して、そこからあるべきホームドアを検討したらいいのだ、と主張したら、それは会議の全員から受け入れられたけど、”あるべき論”ってゼッタイに大勢を獲得できる。

誰か上役に対して押し付けるための”あるべき論”ではなくて、自分が社会を獲ったらこうするぞ!という意思としての”あるべき論”やねん。

私のこの発想が、日本政府ら権力者にとってはいっちゃん怖いはずで、だからこそいっぱい攻撃してきとるはずなんやけど。

ただ、私も、いろいろと事情があって、自分の目の前のヒトと”あるべき論”を始めるには至ってない。

”あるべき論”って、たとえば働くなりして、自分が、目の前の作業だけでなくて、背景のシステムみたいなものまで見えたときに、
「決められた作業だけをやるのではなくて、こうしたほうが、安全だよね」
とか、まあ合理化の手先にされてまう可能性はあるにせよ
「決められた作業だけをやるのではなくて、こうしたほうが、みんなラクできるよね」
みたいな智恵として見えてくると思うねん。

それはやっぱ、いろんな意味でまだまだぺーぺーの私がとやかく言えないところがあって、なんとかしたいとは思うとる。

ただ、まだまだぺーぺーだからブログをやめろ、ということにはならんし、こう書いたからといって、ぺーぺーごときが書いて生意気だ!ってことにもならんと思うねん。

ペーペーとはいえ、人生経験としてはバカボンパパと同じ41年生きてきて(なのにバカボンみたいな子供おらんけど)、一応”不惑”の歳を迎えているし、実際どうしようかと言いつつ、私はこんな場合も考えられるということをあらん限りいっぱい出して、悩むのは相手方、みたいにしたいとも思うし

祐天寺の゛ナイアガラ゛に、10年ぶりくらいに来た

祐天寺の゛ナイアガラ゛に、10年ぶりくらいに来た
祐天寺の゛ナイアガラ゛に、10年ぶりくらいに来た
祐天寺の゛ナイアガラ゛に、10年ぶりくらいに来た
祐天寺の゛ナイアガラ゛に、10年ぶりくらいに来た
祐天寺の゛ナイアガラ゛に、10年ぶりくらいに来た
お子さま連れの家族多いし、店員さんも若い女の子いるし、鉄道グッズ多いしで、10年前とめっちゃ印象違った。

10年前はもっと地味な印象やった。

西脇駅の方の色紙、10年前にもあったの思い出した。

自分なりにいろいろと考えて、やっぱ、ハイすぐやめますとは行かんなあ

私も、覚悟なく書いとるワケちゃうから、私の思いに肉薄してもらえない"命令"では、難しい。

たとえば、自分がいまいるところのヒトの信用を得られない、と言われるけど、やっぱそんなことないんちゃう?と思うてまう。


たとえば、

① ミュージシャンを目指して練習して、夜はストリートで歌って、昼はどっかで働いているヒトがいるとしよう。
子供の頃からの信念もゼンゼン曲げてない。
そんな彼が、やはり昼働いている自分たちが、8時間フツーに働いてもゼンゼン生きてけないことを問題視して、労働者の団結に加わる

のと、

② これまでいい給与をもらえるよう、たくさん転職してきて、さらにカネを得ようと宝くじを買ってきた。
特に趣味はない。
けれども、街頭でビラを見て、こういうのもあるんじゃないか、と思って、労働者の団結に加わり、勉強会にも参加して、自分のほうがビラを配りはじめた

この①②の2人では、どちらが信用に値するか?


活動家は、自分たちそのものだったりするから、②のほうがいいに決まっている、と言うと思う。

けど、私は違うと言う。

②の人間は、権力から、自分だけ良い条件を出されたら、勉強ほっといてサッサと妥協してまうと思う。

だって給料を求めて転職を繰り返したり、宝くじを買ったりと、権力におもねる思想が身に染みついていて、身に染みついているモノは、"お勉強"では到底覆せん。

けど、①は違うわな。

自分の夢を追いかけて、実現できてないかもやけど、妥協したことがない。

それでも、どこまで耐えられるかはワカランけれども、②よりは非妥協で闘えるやろ。

そして、別に①の人物が、ミュージシャンとして成功した暁には、自分らの職場を去ることにはなるやろけど、そいつが、
「この闘いはなんとしてもやり切る」
と言い切ったら、信用するに値するやろ。

②の人物が、
「この闘いはなんとしてもやり切る」
と言ったとしても、私は、
「オマエ一度もやり切ったことないやろ!」
と言うてまう。

そういう考えからも、ブログを書ているから、即、団結破壊に繋がるとは、私にはどうしても思えん。

そこまでの信念を持ってブログを書いてきたから、やめるにしても、相当な考慮が必要になる。

やっぱ私どうしても、”人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。 多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない”この一文を主張したいなあ。

”人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。 多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない”

コレは、塩野七生によって、カエサルによる言葉と言われて、意訳とされているけれども、その意図はそのとおりやろ。

カエサルのこの言葉の真意を主張する共産主義者は、見たことないねんけど、私はこれはものすごく共産主義的やと思う。

”原始共産制”で検索したら、ローマ帝国はその対極とされとる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%A7%8B%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%88%B6

けど私は、カエサルだけは共産主義者で、だからこそすぐ暗殺されてもたと思っている。

レーニンだかがやっていたという、”護民官”

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%B7%E6%B0%91%E5%AE%98

だって、検索しても、むしろ古代ローマのカエサルの例しか出てこん。

但しカエサルは、養子のオクタヴィアヌスが、いわばスターリンのようなヤツやったから(そうなる運命でもあるけど)、暗殺されて目論見は潰れたと、私は読んどる。

私は歴史だって文学だって、定説を覆す私論を持っている。

ハムレットも忠臣蔵もクソクラエで、あんな物語は全部権力に忠誠を誓えと言うとるだけで、とりわけハムレットは民衆の意思が置き去りなのが根本的におかしいと思っている。

やっぱ、書いてまうなあ。信じられないものごとを目の前にして、①自分が間違っている、常識のほうが正しい と思えることと、②常識が間違っている、自分のほうが正しい と思えることは違うよなあ。

①自分が間違っている、常識のほうが正しい と思えること

と、

②常識が間違っている、自分のほうが正しい と思えること

この違いを、目の前のヒトに向かって主張する、というのは正しいんやけど、じゃあ目の前のヒトに向かって主張したときに、それをリアルに実感してもらえる根拠はなにか?というと、”機関紙に載っているから”というのはダメで、自分の体験になるんちゃうかなあ?

そしてそれは、必ずしも自分の労働と同じであるか?というと違う。

もちろん、目の前のヒトに向かって伝えることは大事やけど、こうしてインターネットを大問題にしてくれるヒトがいるということは、ウラを返したら、目の前のヒトが、

「大西の言うこと一理あるんちゃう?」

と思ったときに、検索してくれると思う。

私だって、肩書きなんてなんもないし、権力からもらった肩書きなんてないほうがいいと思うけれども、だからといって、目の前のヒトと向き合ったときに、それがええんかなあ?

さらに一歩前に進める考え方って、保存しとったほうがええんちゃうかなあ?

それは、私のいまのリアルな悩みや。

それを、私が知識をひけらかそうとしていて、大勢との分断に繋がる、という意見がある。

いやけど、じゃあ、インターネットを世の中の大勢が利用する中で、大勢が分断をしようと思って利用しているか?というと違うよなあ。

確かに、”何者”でも出てきた通り、知識をひけらかして、肩書きをひけらかして、他人を嘲笑して、分断に利用しようという使い方はあるし、そういう使い方をしているヒトは多いと思う。

けどインターネットって素直に、ありのままに思うことを伝える手段になり得るはずやわなあ?

そんなことを、いま考えても、やっぱインターネットを分断工作の道具と思うてまうこと、もうそれこそが、インターネットをネット右翼に乗っ取られた、分断攻撃を受けた後の、(無意識的かもやけど)敗者の発想と思うなあ。

そして私は、勝者の発想に立てな、勝てんと思う。

まあ、これもまた議論の題材やけど、私自身が、意見を言われて、私なりにどう捉え返したらいいか?を真剣に考えた上での結論や。

単に、
「我々はインターネットを否定するから、インターネットはやめろ」
という主張だとダメやと思う。

私が達した考えに勝てな、私からインターネットを取り上げられんと思う。

また、大勢がフツーにインターネットを使うとるんやし、私がブログをしていたところで、私が大勢と考えが違うと思うてまう、という主張もおかしいやろ。

だって私は、リアルな大勢から、考えが違うと思われて、大西やめろと大攻撃を受けるまでに1年以上を費やしたんやし、そうすると一般的に認知されるにはもっと長い期間があると思う。

いや、当然のように、権力が見張ってはいるんやけどな。

さっきのコメントがめちゃくちゃ多かったのも、むしろ私がブログをやめることを、権力のほうが切に願っていることを、私はひしひしと感じる。

インターネット上からいろんな攻撃が日に日に増しているんやし。最近は電話で求人に勝手に応募されるとか多い。

権力が攻撃してきてない程度のものならば、思ったほど効果がないとして止める理由になるかもやけど、攻撃があるということは、宣伝効果が認められるんやから、止めたら勿体ないと思う。

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