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2017年1月14日

2017年1月14日 (土)

自分らが想定してなかった大きな問題ばかりを取り上げる"ハイエナ主義"からは訣別して、小さなことをちゃんと問題として取り上げられるように変えてかなアカンと思う。

やっぱ、津久井やまゆり園事件とか、電通の高橋まつりさん過労自殺事件をセンセーショナルに取り上げるのって、"ハイエナ主義"であって、違うと思う。

ヒトの死体に群がる、そのことを、いっくら自分らではそれを報道するのは正義と思っても、それは第三者的に冷静に見ると"ハイエナ主義"になってまうと思う。

というのも、それは、自分で殺さず、誰かが殺すのを、どっかで待っとるフシがあるやろ。

それは、いっくら否定したところで、殺人を肯定しとる。

その、殺人を否定しとる度合いは、日本共産党が「戦争反対」というのと、まさに同じ程度の反対具合や。

まだイマイチ説明が抽象的かもと思うけれども、じゃあなんで中核派が、現状ある種"ハイエナ主義"になってもとるかというと、私は根底には、暴力革命を主張しとるところに行きつくやろと想像する。

というのも、人々が怒って暴動を起こす、という暴力革命論に則って、そのためのセンセーショナルな主張を、機関紙等でしとるんやろと思う。

そして、センセーショナルな事件がない場合には、センセーショナルにすべく、世界情勢について滔々と述べて、地区党で言われたけど、「世界情勢を知るのは必要だ」と言われて説教されるようになるんやと思う。

私は、ハッキリ言ってそれは違うと思う。

センセーショナルな事件なんて要らなくて、目の前の、もっと小さな問題を丁寧に取り上げたらええねん。

それは動労千葉が、運転士が運転席からオシッコしてもたことを問題にしたけど、運転席からオシッコなんてする運転士がおかしいのであって、そんなの闘争にならん!と大勢が思うやろ。
それはべつにインターネットにも掲示されとる公知の事実やし、私は書いてもいいと思う。

けど、リアルに運転士になったと思ってみな。

単にイメージだと、運転士って絶対安全でいつも前方をガン見してないといけなくて、尿意を催すなんて不届き千万、と思う者も多いやろ。

けど、自分がなったと思ったら、毎日体調が万全かというと、風邪で体調を崩すときだってあるやろ。
そんなときに下痢が出ることだってあるやろ。
そうすると、普段は出なくても、なんかの理由でオシッコしたくなることってあるやろ。

そう考えると、そのへんのバイトを見ていても、やっぱ最低でも1時間に1回くらいはトイレに行ける機会があるべきなんじゃないか、とか考えると思う。
そうすると、運転士が運転席からオシッコしてもたというのも、ホンマに運転士の責任なんか?そんなに個人責任にしていいのか?
ということになってくるよなあ?

そういう問題は、実は日本中、世界中に山のようにあって、誰しもが何かしら持っている。

けど、中核派の悪いところは、地区党かもやけど、「そんな問題は誰もが持っている」と言って隠蔽するねん。
そして、誰もが持っている問題よりも、ヒトが死んだセンセーショナルな問題とか世界情勢とかばっか述べとるねん。
だから私の日立製作所の件だって報道されずに隠蔽される。

けど、ヒトが死んだセンセーショナルな問題を後追いしたって、労働者が自分らの問題としては考えんやろ。

センセーショナルかどうかじゃなくて、そのヒトにとって考えてリアルかどうかを考えたほうがええと思うなあ。

たとえば、私は日立製作所時代に、国際標準化でリスクアナリシスの概念も学んだけど、まあそんな難しい概念でなくても、労働者ならば、ハインリッヒの法則は知っとるやろ。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%92%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87

ハインリッヒの法則(ハインリッヒのほうそく、Heinrich's law)は、労働災害における経験則の一つである。1つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、その背景には300の異常が存在するというもの。「ハインリッヒの災害トライアングル定理」または「傷害四角錐」とも呼ばれる。

私が考えるには、中核派の過ちとして、ハインリッヒの法則における1つの重大事故と、世界情勢ばっか報道しとる。

けど、労働者がホンマに求めとるのは、”300の異常”やねん。

”1つの重大事故”なんて経験するのは稀やけど、”300の異常”のいくつかは、自分で経験したことがあるやろ。

そうすると、”300の異常”について機関紙に取り上げて、それをお互いに言い合ったら、「ああ、そういう問題は自分も経験したよね!」ってハナシになるやろ。

それが仲間の連帯になる。

運転席からオシッコというのも、重大事故ではないとしても、”300の異常”には確実に入る事象やねん。
オシッコをガマンしとる運転士がいっぱいいるということは、それだけ運転士が本来前方に向けるべき注意が向けられてないことにもなるしなあ。

そして、”1つの重大事故”だけではなくて、”300の異常”について、問題なんじゃないかと言い合う、というのは、実は鉄道現場で働いてきた人々のリアルやねん。

鉄道現場では、”安全は輸送業務の最大の使命である。”と言われとるんやからな。

運転安全規範 - Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/運転安全規範

”安全は輸送業務の最大の使命である。”と言われとるにもかかわらず、”300の異常”は無視して世界情勢を報じて、”1つの重大事故”が起こったらそのときだけ報じるのでは、労働者と団結できんよなあ。

私は日立製作所でホワイトカラーやったけど、日立製作所でも、鉄道の国際標準の、まあ鉄道界のTPPといっていいRAMS規格を怖がる人々に対して、「RAMSお化け」と、日立製作所史上最も早く出世したと言われとった網谷憲晴が、部下に対して言うとった覚えがある。

けど、別にホワイトカラーだけでなくても、労働者は、”300の異常”がいつ”1つの重大事故”というお化けに繋がるかどうか、とヒヤヒヤして生きとるんや。

それをデスクワークのヤツらはわからずに、”1つの重大事故”と世界情勢ばっか報じとる。

世界情勢を報じるのは、国際連帯のために必要、という主張もあるやろ。

けどそれもまた違うねん。

マルクスか誰かが言った通り、もう資本主義で世界は統一されて、どこの未開の市場で儲ける、とかいう議論ではなくなっている。

だからブレグジットとかトランプ当選とか、韓国情勢とかがイッキに噴出した、というのは、世界情勢を見ても明らかやろ。

それでな、労働者は世界情勢を把握しようが把握しまいが、自分の職場で働くしかないんや。

それは中核派自身がそう規定しとるよなあ。

・・・・・・じゃあ、労働者が世界情勢を把握する必要性って、そもそもどこにあるの?

世界情勢を把握する必要性があるのは、実は権力者のほうで、まだどこかに儲けられるところはないか?と探すねん。

けど、もういま世界のどこにも儲けられる場所がなくて手詰まりになっとるのが現状や。

そして、各国の労働者が、自分の職場で、私は闘う、と言い出す、それが各国に連鎖する、それだけでええやん。
それは別に、労働者が世界情勢を把握してなくてもできてまうことやわなあ。

いや、労働者が、実は株とかFXをやっていて、どっか未開の新興市場で儲けているというならば別やけど、そんな妙手はもはやないって、みんな実感しとるやん。

そして、労働者が、”1つの重大事故”ではなくて”300の異常”を共有したとき、思いはひとつになるはずやねん。

その思いは固有振動数に達して単振動となって、資本主義というビルを軽々と倒せてまう。

これまで革命は、結果的にその大多数が暴力的に為されたのかもワカランけれども、実は原理としてこうして、人々の思いが単振動になって振り切れるのが実態やねん。

韓国で何波ものゼネストが打ち抜かれたやん。

てか調べたら、想像してきたとおり、パククネに退陣を求めた後どうするか?がわからずに、左派のほうが弱まっとるっぽいなあ。

http://www.labornetjp.org/worldnews/korea/knews/00_2016/1483163797061Staff

念のために確認したけど、前進ブログを見てさえも、ひと頃から比べると手詰まり感は否めん。

http://www.zenshin-s.org/zenshin-s/sokuhou/2017/01/post-3160.html


まあ、そういう意味では、世界情勢を把握するというよりも、韓国の仲間を助けるという意味で、たとえば日本の鉄道で働く人々が、自分らが権力を握ったらどうすればいいのか、の智恵を絞り合って、韓国の人々に対して、「こうすればいいのでは?」と言う方法ならばあるやろなあ。

人々が想像できん先のイデオロギーを言い合って、大勢の意思から外れて雲散霧消してまうのでは、権力者の思うツボで、そうではなくて、これまでのイデオロギーを捨て去っても、大勢の意思を貫けることこそが、ホンマの革命に繋がると私は考える。

そんでな、”300の異常”については、”リスクアセスメント”として規定されとるし、そのもともとの考え方は、イギリスのALARPの原則による。


リスクアセスメントからマネジメントシステムへ-ALARP 達成手法の開発とシステムへの展開- 豊 田 寿 夫

http://www.jniosh.go.jp/oldsite/publication/JOSH/pdf/vol3no1/Vol03No1-06a.pdf


ALARP

https://ja.wikipedia.org/wiki/ALARP

ALARPは"as low as reasonably practicable"の略で ALARPの原則とはリスクは合理的に実行可能な限り出来るだけ低くしなければならないというものである。ライフクリティカル・システムや高信頼性システムの分野でしばしば使われる用語である。

リスクが(以下で述べる)ALARP領域に留まることができるのは、リスク低減に要する費用が得られる利益に対して極度に釣り合わないことを示せる場合のみである。ALARPの原則はリスクをゼロにするために労力とお金が無限に費やされる可能性があるという事実に基づいている。注意しなければならないのは、単に損失に対して利益を量的に比べるのではなく、ごく当たり前に、リスクと社会的利益の釣り合いを判断するということである。

英国においては1949年のEdwards v. National Coal Board訴訟以後、ALARPと同じ意味のSFARP:合理的に実行可能な限りできるだけ遠ざける(so far as resonably practical)が法律でうたわれている。この判決はリスクは犠牲と、それを避けるためのお金や労力、時間に対して十分小さくなければならないというものだった。欧州裁判所における10年間の法廷闘争は2007年6月14日にSFARP原則を支持して終了した。

ALARPの原則は、権力者側が、さまざまな国際標準で当然のように使うとるんやけど、中核派的にそれが問題の根幹にあるとは全く主張してない。

”欧州裁判所における10年間の法廷闘争”なんやから、ものすごく大事な闘いで、コレは無視できんし、法廷闘争をした人々に対して、「どういう闘争だったのですか?」と聞いて、日本から見てやはりその判決はおかしい!と主張することは、私はそういうのこそが国際連帯やし、世界情勢を把握することに繋がると考える。

安全を守るのは、リスクアセスメントの書類ではなくて、そこで働く人々の意思やねん。

だっていっくら書類があったって、機械は壊れるんやから。

壊れたモノをちゃんと判断できるのは、けっきょくのところ人間しかないねん。

やっぱ、なかなか経験できん”1つの重大事故”よりも複数のヒトが知っている”300の異常”を共有することのほうが、チカラになると思うなあ。

だいたい、ヒトの会話を聞いていても、知らないことでは盛り上がらずに、ある程度実感として知っていることのほうが、「ああそれそれ!あるある!」って盛り上がるやん。

盛り上がるというのは共鳴しとるんやし、それは単振動になって革命に繋がるハズなんやけど、それをなんかイデオロギッシュな暴力革命論が妨害しとると私は考える。


神を創造したのは人間である、と言うたのはマルクスらしいけれども、私だってそんな考え以前より持っとる。

私はマルクスよりももっと単純に、5年前に、近くの仏教の”四恩保育所”に入っていたことから、”四恩”って何なんやろ?と思って検索したら、”父母の恩,国王の恩,衆生の恩,三宝の恩”らしいけど、私はそうではなくて”目の前のヒトの恩”の”一恩”でいい、”四恩”という考えは違う、と思った。

それで調べたら、ブッダ自体は”一恩”を言うとったんやけど、後に弟子が作り出した概念らしいやないか。

”目の前のヒトの恩”の”一恩”でよくて、けれども、目の前のヒトが生きているには、そのヒトの親がいて、先生がいて、仲間がいる。
そんな人々にも、まあ出会ったりメールとかで、目の前のヒトが現れたことの恩は伝えることができるやろ。

さらにその後ろに、その伝えるべき人々に対しても、親がいて、先生がいて、仲間がいる。
そんな人々には、なかなか出会ったりは難しいかもやけど、そんな人々について頑張って考えて想像することは可能やろ。

けど、さらにその後ろに控える人々、そのさらに後ろに控える人々・・・なんてのは、もう誰も想像できん。

それでも、世界中には多くの人々がいて、間接的にお世話になっている。

・・・・・・そんな人々に対して、直接お礼を言うわけにはいかないから、神にでも祈ろう。


私は、神ってそういうモノで、自分がお世話になっていると想像できるすべての人々に対してお礼を言えないときに、最後に出て来るのが、神という概念やと考える。

たとえば、小中学生のときに作ったグラフでいうと、主だった意見として集計できん”その他”みたいなもんやな。

けど、一見”その他”のほうが大きいように見えてまうというトリックがある。

そして、一見”その他”のほうが大きく見える、そのトリックを最大限に使って、目の前のヒトにお礼を言うよりも、神に祈ることのほうが重要なんだ!と主張したのが、キリスト教を含めてほとんど全部の宗教やと思うとる。

けれども、中核派だってあんま大きなことは言えん。

宗教が「神に祈れ!」と言うとるところを、「世界情勢に目を向けろ!」と言うとるのが中核派(少なくとも地区党)やねん。

けど、「神であっても世界情勢であっても、自分が目の前のヒトに向き合うよりも、コッチを優先しろ!」と言うてもとることには違いがないわなあ?

私は、神も世界情勢もなく、目の前のヒトに向き合うことをちゃんとしろ、と言うとる。

そしてそれは、あんま現状はマルクス主義者とは意見が合わんけれども、現場の労働者の意思に即しとると信じる。

私もいろいろ言うけど、権力に対してリアルに闘っているのは中核派しかないと思う。ただ全員が同じ方向を向いているわけではなくて、耕されてはいるけれども整理されて耕されていなくて、虫食い状であるとも思う。

コレ

http://onicchan.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-2057.html#comment-114200987

中核派なんてもともとそっちなの知らなかったとは言わせねぇぞ!
だからお前中核派入ったんだろ?
解雇した日立に自分は中核派やぞ!怖いんやぞ!って知らしめたかったんだろ?
んで、構われないから否定する、馬鹿じゃね?
投稿: | 2017年1月14日 (土) 20時22分

公安とか権力の書き込みであることは間違いない。

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けど、公安とか権力が思うのとは、もはや違う次元に私はいる。

私がココで書くと、それまでハレーション大きかったのがもっと大きくなると思うけれども、私の現在の認識では、中核派と動労はイコールではない。

どうイコールではないかというと、全員が全員そうというわけではないけど、やっぱ中核派の内勤として活動してきた者は、ある種官僚というか、企業でも労務管理みたいな、体制内のことしか考えられんようになってもとるねん。

けど、動労の人々は違うわな。

だって企業がお客様を相手にするのと同じように(ちょっと違うかもやけど)、自分がいちばん闘わねばならない企業管理者側と、イロイロと丁々発止のやりとりをして、なんとかその企業管理者側から雇用と、それに起因する給与を得とるねん。

中核派の内勤は、どこかで、その、労働者が困難の末に得てきた給与を、自分達は得てアタリマエ、みたいな温い感覚ができあがってもとる。

それが、私が地区党で言うとる問題であるし、やはり地区党だけでなくて、中枢も考え直さなアカン問題と思う。

いや別に自分を全否定する必要はなくて、働いて企業管理者側から給与を得るというのが、フツーなことではなくて、それ自体がめちゃくちゃ大変なことなんだ、ということを再確認したらええと思うだけなんやけど。

まあそれはそれでたいへんで、どこの政府・企業も、管理者側になったら定型業務報告で済ませるラクをしたくなって、それは中核派だって陥っているし、改善したって陥らん保証はどこにもないんやけど。

だから、私は”マルクス主義”とかじゃなくて、個人の意思だと思っている。

「”マルクス主義”では、みんな平等で、ヒーローはいないんだ!」と説かれたって、「じゃあ”マルクス”ってなんなんだっけ?」って私は素朴に聞き返してまう。

それを地区党のバカは、「マルクスは違う!」ってしゃあしゃあと言い切った。

ならば、キリスト教の人々が「キリストは違う!」って言うことに対して、一切の反論ができんようになってまうよなあ?

”マルクス主義”以後、レーニンとかハンサンギュンとか、いっくら平等といいつつ、やっぱヒーローが出てきとるのが現実やろ。
日本だと中野洋か。

現実的にヒーローがいる前提で、そこでどう平等を捉え返すか、私はそこがひとつの問題と思っている。

私は、日本国憲法で、憲法第十二条が素晴らしいと思う。・・・・と思って調べて、改めて読み直したら、憲法第十二条にこそ問題があるのかもなあ。

http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S21/S21KE000.html

第十二条  この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

”不断の努力”という文言が素晴らしい、とこれまでは思ってきたけれども、いま改めて読んだら、コレはけっこう恣意的な文面やなあ。

憲法第十二条の制定にも相当なやり取りがあったと私は改めて考える。

私が憲法を考えるならば、まあ国家の義務ばっか言うとっても空文になってまうことを考慮して、国民に言及するのはよしとしても、

第十二条  この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。国家は国民が、不断の努力を為すに足る権利を与える責任を負ふ。

というカンジに書くかなあ。

まあそうすると第十三条、第十四条と前後してまうかなあ。

”不断の努力”という文言が素晴らしい、とこれまでは思ってきたけれども、その後の文言を見たら、”不断の努力”は国がするものであって、いつ病気になるかワカランし、幼年とか老人とか障害とかで”不断の努力”ができんようになるかワカランし、それを国民に押し付けるって、なんかチガウよなあ。

いやもちろん、人間生きてくためには”不断の努力”をしたほうがいいのは事実なんやけど、それを国体を縛るハズの憲法で、しかも国民を縛る文言になっとるというのは、いま改めて考えるとおかしいよなあ。

”公共の福祉”というのは、安倍政権がゴリゴリ主張して、基本的人権を削除する要件みたいにしとることからも、コレはむしろ国民から基本的人権を削ぎ取るための条文と読み取れるなあ。

国民が濫用するもなにも、それは法律で規定するんやから、憲法で書いたところで本来なんらの束縛はないはずやからなあ。

そうすると、どうして敢えて書いてきたか、はめちゃくちゃ問題になる。

今後改憲が議論されてくるやろけど、憲法第十二条を制定したそもそも論自体を論破してかなアカンのちゃう?


私はこういう意味からも、実際としては改憲派やねん。(てか個人的に空文な憲法第九条廃止を主張しとるし)

だって改憲のさらに向こうに革命があるんやし。
まあその思いに関しては、私だけではないみたいやけど。

もう何回目かの”君の名は。”やったけど、改めていろいろと思った。

いっちゃん思ったのは、けっきょく”片割れ時”になるまで、三葉は瀧との入れ替わりの全体像を知ろうとしてなくて、瀧だけが全体像を追いかけとるねん。

そこが、三葉というか、女の子が、自分が生きられるために、まだ会ったこともないのに、人生をかけてくれるオトコがいる、というところが、女の子のココロを掴んだ、最大のヒット要因やと思う。

それは、以前挙げたけど、瀧がお互いの名前を憶えておこうとして書いた言葉 ”すきだ” にも、端的に現れとる。

やっぱ人間、学問とか言葉とか、仕組みとか、そういう外からのモノではココロは動かん。

アレが現実に”たき”と書いていたとしても、三葉はコケた後にもっぺん走り出そうとは思えんかったと思う。
というのも、”たき”という名前は知れても、瀧の思いには至らんかったと思うから。

瀧の思いに触れたからこそ、三葉は、自分のためだけではなくて、瀧が助けようとした糸守町の人々全員を救い出そうとして、行動をしたんや。



そうは言いつつ、髪を切る前に泣いてもた描写もあったけど、アレは、自分は瀧のことが好きやのに、現実の瀧は奥寺先輩と一緒になってしまうのか・・・・と思うと切なくなった、という涙やろなあ。

だから、その後でやっぱ決意して、東京に出て瀧を探し出したんや。
けど瀧は何故か知らんふりをした。
あのカンジやと、心理描写までは描かれてはないけど、三葉は自分が振られたと思うたんやろなあ。
(但し瀧はまだこのとき中学生で、制服が違うところは描かれとるけど、三葉はそこまでは理解してないことになっとる。
てか3年ぶん若いことを理解せんかったとは、リアルでは思いづらいけど、そこはアニメで曖昧にしとるところかもなあ)

アニメーション的にいうと、いまさらやけど、神前の舞踊、アレだけが、実写の動きをアニメにトレースしとったよなあ。

というのも、フツーアニメで2人の登場人物がいれば、同じセル(いまはそうは言わんのか。動画と言うたらええのか。)の上で描くんやから、動きも完全にシンクロしてまうねん。

けど、この動きは2人の動きが微妙にズレとった。
時間的にタイムラグがあるとかではなくて、2人の動きが違うかった。

だから、リアルに2人を演じたヒトが2人いて、その人々の動きをアニメでトレースしたと思うよなあ。

しかし、そうしても、なんでカンタンに修正できるいま、ヒトが走るとかいう単純な動きが、ヒョコヒョコとした動きになってまうねん?

たとえば、走る動きだって、右手を出してひっこめて左手を出してひっこめて・・・、脚はその逆で、左足を出してひっこめて右足を出してひっこめて・・・、の繰り返しを1回分ちゃんと描いたら、あとはそれを繰り返し再生しとったらええだけやん。

なんでそんな動きを誰も描けんのかフシギで仕方ない。

てか私はまた昔のハナシを書いてまうけど、1997年くらいかな、”母をたずねて三千里”のレーザーディスクを、7万円くらいの大金をはたいて買って(いま考えるとガチで大金やなあw)、1話で、マルコの走り方がなんか、フツーのアニメみたいにヒョコヒョコ走ってなくて、ちゃんと力強く走っていてすごいと思って、コレを描いたアニメーター誰かなあと思ってクレジットを見たら、宮崎駿とあった。

けど、ジブリの公式サイトの、宮崎駿の経歴には、”母をたずねて三千里”の1話の原画をしたことは書いてなかった。

いやそれは書いとかなマズイやろ!と、ジブリにめちゃくちゃ苦情のメールを書いたら(いやだって世界の宮崎駿なんやから、それくらいちゃんとしろよ)、逆にサイトに「この記載の正確性は保証しません」とかいう旨の注釈をつけてきやがった。

ジブリもしょせんはその程度かよ、と思った。

宮崎駿というと、私が明石映画サークルの岡本好和と一緒に行ったときに、宮崎駿と一緒に話す機会があって、やっぱうれしいやん。

けど宮崎駿は私に関しては全く意に介さんかったみたいで、せっかく記念写真を撮ってもどっか違うとこを向いとってん。

コイツは人間としてクズと思った。

宮崎駿自身、「石原慎太郎に会ったけどアイツクズ!」とか言うとったけど、目糞鼻糞を笑うというヤツやなあ。

私宮崎駿は、アニメーターとしては尊敬するけれども、人間としては全く尊敬してない。
アニメーションの発展にさほど寄与してないんやから。

いや、世界の多くのクリエイターは、宮崎駿の名前を出しとるのは事実や。

けどそれは、宮崎駿がかつて毛沢東を崇拝したのと同じように、世界のホンマの趨勢からすると違うんちゃうの?

宮崎駿は戦術は残したけれども、戦略を残せるほどの大志は抱いてなかったと思うなあ。

だからどこかで、政治的なことを問われて、「僕は文化人だから」としれっと逃げのコメントをしたんや。

いまガチで生きようとしたら、政治は避けて通れんよ。


まあ、それはどうでもいい。

RADWIMPSの曲、歌声で、おかしいと思うものはない。
やっぱさすがに売れた映画やから、音楽もちゃんとしとると思う。
それにしてもASKAにも負けんくらい高い歌声やなあ。
私もけっこう高音のほうやけど、私が歌っても裏声になるかもと思う。

めっちゃどうでもええかもやけど、瀧が乗るのはN700系(またはN700A。但し座席の向きは怪しい)で、三葉が乗るのは700系やなあ。
三葉の座席のモケットは見るの忘れたけど、ナントナク700系と思うし、少なくとも降りた後の車体は700系やった。

その後で三葉が乗っとる通勤電車の座席のモケットがE235系のもので、2013年時点であり得んとは思うんやけど、ほかにもシチュエーションなどいろいろとウソがあると思うし、そこだけ取り上げてもなあ。

あと新幹線から見る外の景色が、3DCGになっとって、いまはそうなんかと思うた。

ジブリの作品からだって、列車からの景色というと、魔女の宅急便くらいになってまうのかもやけど、いや千と千尋でもあったか、背景動画になってまうんやなあ。

まあ背景動画になる、というのが、宮崎駿の飛ぶ・・・・、いや正確には飛んだ自分が見るシーンの醍醐味であったともいえるけど、それを3DCGで難なく表現されて、宮崎駿は立つ瀬がなくなったともいえるかもなあ。

こんだけ私は宮崎駿をコテンパンに書いていてさえも、飛んだ自分のイメージを、3DCGの冷静な画像ではなくて、自分は空を飛びたいんだ!こんな景色が見たかったんだ!という意思として描くことは、やっぱ可能やし、アニメーターは3DCGに負けてまうのではなくて、そんな表現をイメージとして描いて欲しい。

ASKAだって、誤った道かもワカランけれども、違う意味で飛んでもたんやし、いま酒やタバコ、ギャンブルをたしなんでいる人々も、いつそれらが違法とされる世の中が来るかワカラン。(まあどれも政府が儲ける手段になっとるからないとは思うけど)

3DCGが伝えられるのは、あくまでも冷静な、定点的な画像やねん。たとえ動いているとしても、加速度ゼロで定速で動いているとかやろ。

そうではなくて、リアルに動的に、自分の気分も動的にイメージできたら、それはすごいと思う。

いま”VR”とかいわれとるけど、たぶん、外から来るモノがどうなるかを表示するだけで、自分の意思は表示できんと思う。

・・・・まあ、”VR”でそれを表示できるようになってさえ、そんな外からのモノに対して人間が受け身になっていいわけではないけどな。

私は暴力革命論に対して否定する説明をだいぶ体系的に考えたけど、これから久々に「君の名は。」を観るから途中でほっていく。

コレ

しかし「君の名は。」は「アナと雪の女王」も超えて、「千と千尋の神隠し」も超えるかも知れんらしいなあ。

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やっぱ、津久井やまゆり園事件とか、電通の高橋まつりさん過労自殺事件をセンセーショナルに取り上げるのって、"ハイエナ主義"であって、違うと思う。

ヒトの死体に群がるんやから、いっくら自分らで、それを報道するのは正義と思っても、"ハイエナ主義"になってまうと思う。

自分で殺さず、誰かが殺すのを、どっかで待っとるフシがあるやろ。

それは、いっくら否定したところで、殺人を肯定しとる。

殺人を否定しとる度合いは、日本共産党が「戦争反対」というのと、まさに同じ程度の反対具合や。


じゃあなんで中核派が、ある種"ハイエナ主義"になってまうかというと、私は根底には、暴力革命を主張しとるところに行きつくやろと想像する。


暴力革命論で、人々が怒って暴動を起こす、そのためのセンセーショナルな主張をしとるんやろと思う。


運転安全規範 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/運転安全規範

安全は輸送業務の最大の使命である。

"カリスマ貫太"のコメントは、ある程度ダンスを知っとる工作員やな。

カリスマカンタローが、Google+で私をフォローしてきたのは事実やけれども、カリスマカンタローは私に対して一度もコメントしてきたことない。

それでも、触れるならGoogle+やろけど、Twitterを触れるのもおかしい。


"ヒップホップのいわゆるディレイというテクニック"とか書いとるけど、テクニックというものはあまねく、基本のリズムを覚えるのが最初で、ただそれでは面白みがないから、表現方法として誰かが考案したものを、さらに誰か(同一人物可能性もあるけど)がアンチョコを発見して広めたモノやねん。

だから、どんなテクニックがあろうとも、基礎の理解なくして、ヒトのココロには伝わらん。

たとえば田野については、タイミングは合っているけど、変わりばえせずにツマラン!と書いて田野をどうも落ち込ませたことがあるとは思うとる。

その上で、田野は完全に合っているタイミングをちょっとイジったりしとるし、私はそれは評価していて、ダメと言ったことはない。

むしろ、もっとゆかるんみたいに自由奔放なとこが欲しいと書いたことがあるくらいや。


しかし伊達娘は、この基礎のタイミングがいつまで経っても合わん。

そうすると、それは、テクニックというよりもクセになってまうわなあ。
他に応用が利かんねんから。

私はそれを問題と思って指摘している。


あと伊達娘がクラシックバレエを習うとったのも、エケペディアに書いてある。

私は、基本のタイミングと、柔らかいカラダが得られな、まだまだフリースタイルでは通用せんと考える。

なあ工作ちゃんよ。


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http://onicchan.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-b490.html#comment-114198117

ハーイ、Mr .大西!
知り合いのまた知人から聞いて来たけど、
Twitterは一体どうしたの?
岩田華怜さんの動画見させてもらったよ。
彼女とは直接面識ないけどベースにあるのはヒップホップですね。
確かに手足の動きの遅れは散見されたけどこれはヒップホップのいわゆるディレイというテクニックだから素人は気にしないでいいレベルですね。
確か以前共演させていただいた子兎道場という番組で田野優花さんも同じ動きを意識してましたよ。
それより岩田さんの動きで秀でてるのはいわゆるアイソレ
アイソレーションとは、頭や首、肩、胸、腕、腰、足など、体の各部分を単独で動かす練習=が森川さんより上回っている事です。
加えてクラブ(蟹)ダンスのような脚の動きが見られるのですが彼女はクラシックバレェでもやってたんですかねえ。
いずれにせよこうしたフリースタイルダンスの分野でも努力次第で十分通用すると思います。


投稿: カリスマ貫太 | 2017年1月14日 (土) 01時27分

さややともえきゅんを比較して、表情をどう作るべきか?について。

私、さややってパフォーマンスはいいけど、表情とか文章とかが足りてないと思う。

たとえばコレな。

https://plus.google.com/u/0/105868959172319352511/posts/Gx7M5qZEAnt?sfc=true

この写真、なんか考えとるように思えるかというと思えんやろ。

そうするとこの写真からはストーリー性が見出せんねん。
あとけっこう化粧濃いやろ。

カメラマンはこの写真はボツにするやろ。

対してもえきゅんは、なんかヤル気満々なところが見えるし、それに化粧薄いからかほっぺたとかに服の色がビミョーに反射して、顔だけやのにセクシーに見える。

https://plus.google.com/u/0/106575927859217364851/posts/96rPmCTjMFo?sfc=true

この写真なんかなかなかいい気がする。

もえきゅんのほうが圧倒的にストーリー性を感じられる。

文章から見ても、センター試験のお兄ちゃんを応援する、というイメージなんかな?

さややは、動いたらパフォーマンスいいのに、写真とかそれが活かせてない。

もえきゅんは写真もパフォーマンスも全部同じイメージや。

さややはそういうところを考えて欲しい。

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